豊臣政権と徳川藩政時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:44 UTC 版)
豊臣秀吉による奥州仕置により伊達政宗が伊達氏の元の本領以外没収され、会津には蒲生氏郷が入る。翌年の葛西大崎一揆の戦後処理で伊達政宗が岩出山に移封させられると、蒲生氏郷が福島県中通り以西のほとんどを領有した。しかし子の蒲生秀行は会津から宇都宮に移され、代わって越後国の上杉景勝が会津120万石を得て福島県の中通り以西のほとんどの地域と山形県の置賜地方を領有した。なお、葛西大崎一揆の原因を作ったとして所領を奪われた岩出山の旧領主の木村吉清は、後に許されて蒲生氏郷に仕えて杉目城主となった。吉清は杉目を「福島」と改称し、今日の県名の由来となっている。 関ヶ原の戦いによって上杉景勝は信夫郡伊達郡を除く福島県域の所領を失い、30万石となる。代わって会津には蒲生秀行が再度入封し、会津藩60万石が成立する。が、2代目の蒲生忠郷が早世し伊予松山藩に移ることになる。次に1627年加藤嘉明が40万石で会津に入封するが、これも2代目加藤明成で会津騒動を起こして領地を徳川幕府に返上した。そして、1643年に松平氏保科正之が23万石で入封し、この松平氏会津藩が戊辰戦争まで続くことになる。 一方、信夫郡と伊達郡も1664年に上杉氏米沢藩から召し上げられ、会津藩以外の大藩はなくなり、会津と浜通り夜ノ森以北(相馬氏領)を除く県内のほとんどの地域で、江戸時代を通じて小・中藩、天領が入り乱れて激しく変遷した。尚この間白河藩は一時徳川譜代となり、寛政の改革を主導した松平定信など中央の名門家から城主が入り文人政治が行われた。 江戸時代に会津若松と日光街道を結んだ重要な交通路会津西街道(下野街道)の宿場大内宿が当時の街並みのまま重要伝統的建造物群保存地区として残され往時を偲ばせる。
※この「豊臣政権と徳川藩政時代」の解説は、「福島県」の解説の一部です。
「豊臣政権と徳川藩政時代」を含む「福島県」の記事については、「福島県」の概要を参照ください。
- 豊臣政権と徳川藩政時代のページへのリンク