加藤明成
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正20年(1592年) |
死没 | 万治4年1月21日(1661年2月20日) |
別名 | 孫次郎(幼名)、休意(号) |
戒名 | 円通院休意 |
墓所 | 京都市東山の東大谷墓地 |
官位 | 従五位下、従四位下、式部少輔、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 陸奥会津藩主 |
氏族 | 加藤氏 |
父母 | 父:加藤嘉明、母:堀部市右衛門の娘 |
兄弟 | 姉(松下重綱室)、姉(池田長政室、のち日野光慶室)、明成、明信(監物)、明利、妹(南部重直室も、後に病身より離縁) |
妻 | 正室:高運院(保科正直の娘) |
子 | 明友、娘(青山幸利正室)、娘(池田薫彰継室、のち溝口政良継室) |
加藤 明成(かとう あきなり)は、江戸時代前期の大名。陸奥国会津藩の第2代藩主。水口藩加藤家2代。
生涯
天正20年(1592年)、加藤嘉明の長男として山城国で生まれる。慶長8年(1603年)3月25日、12歳の時に、従五位下式部少輔に任じられる[1]。当時の文書上の初見は、慶長11年(1606年)2月、当時の父・嘉明の所領内にあった石手寺に出した禁制である。また、元和元年(1615年)11月、明成は石手寺の宿坊、法印の屋敷地に対し、免税の特権を承認した書状も出している。[2]。慶長19年(1614年)、大阪冬の陣で、父嘉明が江戸留守居役となったため、父の代わりに軍を率いて大阪へ出陣した。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では父とともに軍を率いて大阪へ出陣し、190の首級を獲った[1][3]。
寛永8年(1631年)の父の死後、家督と会津藩40万石の所領を相続した[3]。また、寛永11年(1634年)7月16日に従四位下侍従に任じられた[1]。
明成は、父が寛永5年(1628年)に始めた、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の若松城天守閣の改修を引継ぎ、寛永16年(1639年)に完成させた。もともと7層であった天守閣を5層に改め、さらに若松城の西・北出丸を拡張が行われた[3]。また、寛永9年(1632年)、明成は父が築いた滝沢新道の改修工事に着手し、2年後の同11年(1634年)に完成させた[3]。さらに、寛永13年(1636年)、明成は江戸城堀凌いの労役負担を行った[3]。
以前、会津を統治していた蒲生氏郷がキリシタンであったことで、領内には多くのキリシタンがおり、幕府の命により、明成はキリシタンを弾圧していった。寛永8年(1631年)、柴山長左衛門をはじめ42名のキリシタンを処刑したのに始まり、翌9年(1632年)、領内各地でキリシタンの大弾圧が行われた。同12年(1635年)、西黒川分薬師堂河原でキリシタンを処刑した際、キリシタン塚が築かれた[3]。
一方で、領内の統治に失敗し、農村は疲弊した[3]。加えて、明成は宿老の堀主水と衝突した。寛永16年(1639年)、主水が一族郎党300余人を率いて、途中で若松城に発砲した上で、出奔し、高野山に隠れた。翌17年(1640年)、明成は追手を派遣し、幕府に事の次第を訴えた。さらに、翌18年(1641年)、明成は主水を誅殺するため、幕府に訴え、逆に、主水は井上政重に明成の暴政二十一か条を訴えた。幕府はとりあえず主水を溝口宣直に、主水の弟2人を仙石政俊、杉原重長に預けた。結局、幕府は主水に非があるとして、主水および弟2人を明成に引き渡した。主水は明成によって拷問の末、切腹も許さず殺された(会津騒動)[1][3]。
寛永19年(1642年)は全国的に凶作であり、会津も例外ではなかった(寛永の大飢饉)。会津藩では明成の圧政により、農民の欠落が相次ぎ、南山黒谷組の農民144戸が越後に逃亡するなど、2000余の農民が越後・仙台藩・宇都宮藩に逃亡した[3]。翌20年(1643年)、明成は会津騒動やこの飢饉、明成自身が多病となっていたことなどを受けて、幕府に領地返上を申し出た。この申し出を受け入れられ、加藤家の改易が行われた[3][1]。
しかし、父・嘉明の功績により、加藤家は存続を許され、石見吉永に1万石の所領が与えられた。明成は隠居し、長男の加藤明友に所領が受け継がれることになった[3]。明友は庶子であったため、京都の山田氏に預けられ養われていたが、嫡子が産まれなかったため実家に呼び戻され、加藤内蔵助明友と名乗って世子に指名された。その後の加藤家は天和2年(1682年)には近江国水口藩2万石に加増転封され、幕末まで存続した[3]。
明成は、吉永藩領に下って隠居し、万治4年(1661年)1月21日に死去した。享年69歳[3]。
創作における加藤明成
- 山田風太郎の長編小説『柳生忍法帖』における明成は、荒淫残虐で暗愚な暴君として描かれている。
- 中村彰彦の短編小説「亡霊お花」における明成は、一種の偏執狂で、片意地な性格の人物として描かれている。
- 南條範夫の短編集『大名廃絶録』にも、短編小説「加藤式部少輔明成」が収録されている。
- 田宮虎彦の『寛永主従記』にも、明成に関する記述がある。
系譜
父母
- 加藤嘉明(父)
- 堀部市右衛門の娘(母)
正室
- 高運院(保科正直の娘)
子女
注釈
外部リンク
関連項目
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加藤明成(かとう あきなり)
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「Y十M 〜柳生忍法帖〜」の記事における「加藤明成(かとう あきなり)」の解説
加藤嘉明の子で会津藩40万石・加藤氏の2代目。人望皆無で父の代から仕える老臣を疎んじ、会津土着の芦名衆の力を背景に暴虐の限りを尽くすようになった。伊達政宗の揶揄に対して一歩も退かぬ大胆さもあるが、暗愚で人の命を何とも思わない非道の大名である。因みに原作では息子の加藤明友は全く登場しないが、漫画版では名前やイメージで登場。容姿こそ父と良く似ているが、極めて不仲である様子が描写されている。
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