加藤明成とは? わかりやすく解説

加藤明成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/11 07:09 UTC 版)

 
加藤 明成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正20年(1592年
死没 万治4年1月21日1661年2月20日
別名 孫次郎(幼名)、休意(号)
戒名 円通院休意
墓所 京都市東山の東大谷墓地
官位 従五位下従四位下式部少輔侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
陸奥会津藩
氏族 加藤氏
父母 父:加藤嘉明、母:堀部市右衛門の娘
兄弟 姉(松下重綱室)、姉(池田長政室、のち日野光慶室)、明成、明信(監物)、明利、妹(南部重直室も、後に病身より離縁)
正室:高運院(保科正直の娘)
明友、娘(青山幸利正室)、娘(池田薫彰継室、のち溝口政良継室)
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加藤 明成(かとう あきなり)は、江戸時代前期の大名陸奥国会津藩の第2代藩主。水口藩加藤家2代。

生涯

天正20年(1592年)、加藤嘉明の長男として山城国で生まれる。慶長8年(1603年)3月25日、12歳の時に、従五位下式部少輔に任じられる[1]。当時の文書上の初見は、慶長11年(1606年)2月、当時の父・嘉明の所領内にあった石手寺に出した禁制である。また、元和元年(1615年)11月、明成は石手寺の宿坊法印の屋敷地に対し、免税の特権を承認した書状も出している。[2]。慶長19年(1614年)、大阪冬の陣で、父嘉明が江戸留守居役となったため、父の代わりに軍を率いて大阪へ出陣した。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では父とともに軍を率いて大阪へ出陣し、190の首級を獲った[1][3]

寛永8年(1631年)の父の死後、家督と会津藩40万石の所領を相続した[3]。また、寛永11年(1634年)7月16日に従四位下侍従に任じられた[1]

明成は、父が寛永5年(1628年)に始めた、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の若松城天守閣の改修を引継ぎ、寛永16年(1639年)に完成させた。もともと7層であった天守閣を5層に改め、さらに若松城の西・北出丸を拡張が行われた[3]。また、寛永9年(1632年)、明成は父が築いた滝沢新道の改修工事に着手し、2年後の同11年(1634年)に完成させた[3]。さらに、寛永13年(1636年)、明成は江戸城堀凌いの労役負担を行った[3]

以前、会津を統治していた蒲生氏郷キリシタンであったことで、領内には多くのキリシタンがおり、幕府の命により、明成はキリシタンを弾圧していった。寛永8年(1631年)、柴山長左衛門をはじめ42名のキリシタンを処刑したのに始まり、翌9年(1632年)、領内各地でキリシタンの大弾圧が行われた。同12年(1635年)、西黒川分薬師堂河原でキリシタンを処刑した際、キリシタン塚が築かれた[3]

一方で、領内の統治に失敗し、農村は疲弊した[3]。加えて、明成は宿老の堀主水と衝突した。寛永16年(1639年)、主水が一族郎党300余人を率いて、途中で若松城に発砲した上で、出奔し、高野山に隠れた。翌17年(1640年)、明成は追手を派遣し、幕府に事の次第を訴えた。さらに、翌18年(1641年)、明成は主水を誅殺するため、幕府に訴え、逆に、主水は井上政重に明成の暴政二十一か条を訴えた。幕府はとりあえず主水を溝口宣直に、主水の弟2人を仙石政俊杉原重長に預けた。結局、幕府は主水に非があるとして、主水および弟2人を明成に引き渡した。主水は明成によって拷問の末、切腹も許さず殺された(会津騒動[1][3]

寛永19年(1642年)は全国的に凶作であり、会津も例外ではなかった(寛永の大飢饉)。会津藩では明成の圧政により、農民の欠落が相次ぎ、南山黒谷組の農民144戸が越後に逃亡するなど、2000余の農民が越後・仙台藩宇都宮藩に逃亡した[3]。翌20年(1643年)、明成は会津騒動やこの飢饉、明成自身が多病となっていたことなどを受けて、幕府に領地返上を申し出た。この申し出を受け入れられ、加藤家改易が行われた[3][1]

しかし、父・嘉明の功績により、加藤家は存続を許され、石見吉永に1万石の所領が与えられた。明成は隠居し、長男の加藤明友に所領が受け継がれることになった[3]。明友は庶子であったため、京都の山田氏に預けられ養われていたが、嫡子が産まれなかったため実家に呼び戻され、加藤内蔵助明友と名乗って世子に指名された。その後の加藤家は天和2年(1682年)には近江国水口藩2万石に加増転封され、幕末まで存続した[3]

明成は、吉永藩領に下って隠居し、万治4年(1661年)1月21日に死去した。享年69歳[3]

大正6年(1917年)、明成は従三位を追贈された[3]

創作における加藤明成

  • 山田風太郎の長編小説『柳生忍法帖』における明成は、荒淫残虐で暗愚な暴君として描かれている。
  • 中村彰彦の短編小説「亡霊お花」における明成は、一種の偏執狂で、片意地な性格の人物として描かれている。
  • 南條範夫の短編集『大名廃絶録』にも、短編小説「加藤式部少輔明成」が収録されている。
  • 田宮虎彦の『寛永主従記』にも、明成に関する記述がある。

系譜

父母

正室

子女

注釈

  1. ^ a b c d e 『寛政重脩諸家譜 第5輯』國民圖書、1923年、21,22頁。 
  2. ^ 『石手寺古文書』7,8(石手寺所蔵)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『戦国武将 加藤 嘉明』会津若松市観光公社、2007年、132,133頁。 

外部リンク

関連項目

先代
加藤嘉明
加藤家当主
1631年 - 1643年
次代
加藤明友

加藤明成(かとう あきなり)

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Y十M 〜柳生忍法帖〜」の記事における「加藤明成(かとう あきなり)」の解説

加藤嘉明の子会津藩40万石加藤氏2代目人望皆無で父の代から仕え老臣疎んじ会津土着の芦名衆の力を背景暴虐限りを尽くすようになった伊達政宗揶揄に対して一歩退かぬ大胆さもあるが、暗愚で人の命を何とも思わない非道大名である。因みに原作では息子加藤明友は全く登場しないが、漫画版では名前やイメージ登場容姿こそ父と良く似ているが、極めて不仲ある様子が描写されている。

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