豊臣政権における取次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 18:07 UTC 版)
「取次 (歴史学)」の記事における「豊臣政権における取次」の解説
詳細は「取次 (豊臣政権)」を参照 戦国時代にも大名間交渉として取次の慣習が広汎に存在していたが、1984年(昭和59年)に山本博文が発表した論文「家康の「公儀」占拠への一視点-幕藩制成立期の「取次」の特質について」以降、豊臣政権の研究における権力構造やその移行を考察する上で取次の存在が注目されるようになり、豊臣政権研究にとって不可欠の考察対象となった。 山本はまた、豊臣政権の大名統制において、秀吉とそれぞれの大名のあいだを仲介する「取次」が大きな権限を有すると論じ、大大名による取次から次第に石田三成・浅野長政(長吉)ら秀吉側近の吏僚によって取次がなされるようになったことを明らかにした。山本は、豊臣政権における「取次」は、戦国時代にあって各大名の交渉役として置かれた「取次」とは性格を異としており、政権の公的な制度として運用されたものであると主張し、大名統制機構としての側面を強調したのである。 なお、上述の皆川氏は、本能寺の変後の北条氏と徳川氏の和睦、北条氏の下野侵攻、滝川勢の敗走など東国情勢の激変により、秀吉の小田原征伐に際しては北条氏方として小田原城籠城軍に参陣した。しかし、一時は徳川氏の与力として行動したことのある皆川氏は、豊臣政権の東国「取次」役となった家康の強い政治力によって本貫の存続がゆるされたのである。
※この「豊臣政権における取次」の解説は、「取次 (歴史学)」の解説の一部です。
「豊臣政権における取次」を含む「取次 (歴史学)」の記事については、「取次 (歴史学)」の概要を参照ください。
- 豊臣政権における取次のページへのリンク