徳川氏の与力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 13:41 UTC 版)
天正13年(1585年)、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡って真田氏は徳川氏と断交し上杉氏に臣従した。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次上田合戦)。信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。徳川軍が神川を渡河すると、神川まで出陣して軽く一戦を交えたのち、城に向けて退却し、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せたり、城から撤退してきたところを側面から攻撃するなどして勝利に貢献した。 その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた。 天正18年(1590年)、沼田領割譲問題から発生した小田原征伐で信幸は上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる。 文禄3年(1594年)11月2日には従五位下伊豆守に叙任される(同日、弟・真田信繁は従五位下左衛門佐に叙任)。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。文禄・慶長の役では肥前名護屋まで赴いている。
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