徳川氏以前の江戸とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 徳川氏以前の江戸の意味・解説 

徳川氏以前の江戸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 01:58 UTC 版)

江戸」の記事における「徳川氏以前の江戸」の解説

江戸」という地名は、鎌倉幕府歴史書『吾妻鏡』史料上の初見で、おおよそ平安時代後半発生した地名であると考えられている。 平安時代中期930年代頃)に成立した和名類聚抄』にはまだ江戸と言う地名登場せず、豊島郡に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在した記されている。湯島郷は現在の文京区湯島日頭郷は同区小日向桜田郷千代田区霞が関旧称である桜田であった推定されている。江戸は元々は湯島もしくは日頭郷属す小地名であった考えられている。後述江戸氏は、他の武士の名乗り同様に江戸所領としていたために「江戸」と称した考えられるため、江戸氏歴史上登場する平安時代末期には既に江戸という地名存在したと言える地名の由来諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口意味するから「江の入り口」に由来した考える説が有力である。また、「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説もある。あるいは、江戸近郊にあったとされる今津亀津奥津という地名が、現在では今戸亀戸奥戸称されている事から、「江の津」とする説もある。当時江戸は、武蔵国下総国国境である隅田川河口の西に位置し日比谷入江呼ばれる入江が、後の江戸城間近に入り込んでいた。 江戸開発は、平安時代後期武蔵国秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏称する秩父党一族によって始められた。12世紀秩父氏から出た江戸重継は、江戸の地を領して桜田高台城館構え(のちの江戸城)、江戸地名をとって江戸太郎称し江戸氏興す重継の子である江戸重長1180年源頼朝挙兵し時には当初平家方として頼朝方の三浦氏戦ったが、後に和解して鎌倉幕府御家人となった弘長元年10月3日1261年)、江戸氏一族一人であった地頭江戸長重正嘉の飢饉による荒廃経営ができなくなった江戸郷前島村現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、弘安4年4月15日1281年)に長重同族とみられる重政作成した譲状には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家田畠譲渡に関する記述出てくる。この江戸芝崎もしくは柴崎村)は前島北側、今の神田付近推定されている。この頃鎌倉からの奥州への街道は、日比谷入江に注ぐ平川にかかる高橋渡り鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草通っていた。この平川沿いには早くからができていたようである。なお過去平川当初から日本橋川流れたとされたが、現在は江戸城三ノ丸の堀付近日比谷入江注いだ認識されている。芝崎西側にある平川河口部には平川村存在していたが、後には平川村及び平川流域江戸郷の一部として認識されるようになっていった。 鎌倉幕府滅びると、江戸氏一族南北朝騒乱において新田義貞に従って南朝方についたりしたが、室町時代次第衰え戦国末期には多摩郡喜多見活動している。また、応永27年(1420年)紀州熊野神社御師書き留めた江戸苗字書立によれば、さらに多摩川下流大田区蒲田六郷・原・鵜の木丸子隅田川下流域金杉石浜牛島江戸郷の国府方、柴崎古川沿いの飯倉小石川沿いの小日向渋谷川沿いの渋谷善福寺川沿いの中野阿佐谷にも江戸氏一族展開した。 代わって江戸の地には、関東管領上杉氏一族扇谷上杉家有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り江戸氏居館跡江戸城を築く。江戸城は、一説には康正2年1456年)に建設始め翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長文明10年1478年)に剃髪し道灌号し文明18年1486年)に謀殺されるまで江戸城中心に南関東一円活躍した道灌時代平川日比谷入江注いでおり、江戸前島挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江江戸湊としている)があり、浅草湊品川湊と並ぶ中世武蔵国代表的なであった江戸品川利根川現在の古利根川中川)や荒川などの河口近く北関東内陸部から水運用いて鎌倉小田原西国方面に出る際の中継地点となった太田道灌時代長く続いた応仁の乱により荒廃した京都離れ権勢良かった道灌頼り下向する学者僧侶多かった見られ平川中心に城下町形成された。吉祥寺当時城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期移転命じられるまで同寺の周辺には墓地広がっていた(現在の東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺浄土寺縁起からかつては城の北側平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町形成された。更に江戸城河越城を結ぶ川越街道小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期整備されたと考えられ万里集九宗祇宗牧など多く文化人東国旅の途中江戸訪れたことが知られている。 道灌死後扇谷上杉氏当主である上杉朝良長享の乱結果隠居余儀なくされて江戸城閉居することになった。ところが、その後朝良は実権取り戻して江戸で政務行い、後を継いだ朝興も江戸城河越城と並ぶ扇谷上杉氏武蔵国支配拠点位置付けた。だが、扇谷上杉氏高輪原の戦い後北条氏敗れ江戸城後北条氏支配下移った。既に相模国伊豆国支配していた後北条氏江戸支配によって東京湾江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃受けた半分房総半島諸勢力小弓公方里見氏)に後北条氏との対決決意させたと言われている。後北条氏末期には北条氏政直接支配して太田氏千葉氏統率していた。支城支配域としては、東京23区隅田川以西以南及び墨田区川崎市多摩地区各々一部まで含まれている。 従来徳川家康入城当時江戸あたかも全域寒村のようであったとされてきた。だが近年になって太田道灌及びその後扇谷上杉氏後北条氏記録古文書から、徳川氏入部以前より江戸交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承徳川家康江戸幕府業績強調するために作られものとする見方登場するようになったまた、吾妻鑑』における源頼朝入城当時鎌倉に関する描写治承4年10月12日条)がそのまま家康江戸入城時の描写引用されている可能性指摘する研究者もいる。その一方で太田道灌時代記録にも道灌称える要素含まれているため、家康以前記録についてもその全て史実として受け取ることに懐疑的な意見もある。とはいえ、現在では中世達成した一定の成果の上徳川家康以後江戸発展があったと考えられており、中世期文書研究加えて歴史考古学による調査進展によって家康以前江戸歴史に関する研究進展することが期待されている。

※この「徳川氏以前の江戸」の解説は、「江戸」の解説の一部です。
「徳川氏以前の江戸」を含む「江戸」の記事については、「江戸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「徳川氏以前の江戸」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徳川氏以前の江戸」の関連用語

1
8% |||||

徳川氏以前の江戸のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徳川氏以前の江戸のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの江戸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS