徳川氏関東移封後
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天正18年(1590年)8月、家康は関東移封となり家康の家臣・麾下の国人も関東入りした。しかし、元重は三河の父祖伝来の地を離れる事を厭い、老身ゆえにこのまま余命を過ごしたいと強いて請うたので家康は大いに元重の不遜を憎み機嫌を損ねたが、多年重ねた彼の旧功に鑑み、敢えて罰する事もせず望みのままに任せた。 しかしその後、元重が江戸の家康に挨拶に上ると、家康は上記の通り、元重が命に従わなかった事を何時も憎んでいたのだと打ち明け、忍城に出仕するよう命じた。結局、元重は天正20年(1592年)に忍城(10万石)入りとなる家康四男の福松丸(後の松平忠吉)に仕えることになり、忍に移り住んだ。『家忠日記』の天正20年正月25日の条の記述から、この日にそれまでの城主松平家忠(主殿助)が下総国小見川付近への移封決定が判り、同時に松平忠吉の忍入封が決定したことが知れる。 慶長5年(1600年)、福松丸は尾張清洲藩主に栄進し、元重も清洲入りに従う。清洲城では御留守居(150石)として勤仕。その主君・忠吉も28歳で夭折し、家康の九男・徳川五郎太丸(義直)が入府するが元重は忠吉旧臣として義直に抱えられることになった。そして、元和5年(1619年)8月13日、名古屋にて病没した。享年86。
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