徳川氏関東移封後とは? わかりやすく解説

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徳川氏関東移封後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 01:59 UTC 版)

平岩元重」の記事における「徳川氏関東移封後」の解説

天正18年1590年8月家康関東移封となり家康の家臣麾下国人関東入りした。しかし、元重は三河父祖伝来の地を離れる事を厭い老身ゆえにこのまま余命過ごしたい強いて請うたので家康大いに元重の不遜憎み機嫌損ねたが、多年重ねた彼の旧功鑑み敢えて罰する事もせず望みのままに任せた。 しかしその後、元重が江戸家康挨拶上ると、家康上記通り、元重が命に従わなかった事を何時も憎んでいたのだと打ち明け忍城出仕するよう命じた結局、元重は天正20年1592年)に忍城10万石)入りとなる家康四男の福松丸(後の松平忠吉)に仕えることになり、忍に移り住んだ。『家忠日記』の天正20年正月25日の条の記述から、この日にそれまで城主松平家忠主殿助)が下総国小見川付近への移封決定判り同時に松平忠吉の忍入封が決定したことが知れる慶長5年1600年)、福松丸尾張清洲藩主に栄進し、元重も清洲入りに従う。清洲城では御留守居150石)として勤仕。その主君忠吉28歳夭折し家康の九男・徳川五郎太丸(義直)が入府するが元重は忠吉旧臣として義直抱えられることになった。そして、元和5年1619年8月13日名古屋にて病没した。享年86

※この「徳川氏関東移封後」の解説は、「平岩元重」の解説の一部です。
「徳川氏関東移封後」を含む「平岩元重」の記事については、「平岩元重」の概要を参照ください。

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