徳川秀忠への再嫁から晩年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 徳川秀忠への再嫁から晩年の意味・解説 

徳川秀忠への再嫁から晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:58 UTC 版)

崇源院」の記事における「徳川秀忠への再嫁から晩年」の解説

文禄4年1595年9月17日には伏見において徳川家康嗣子である秀忠再嫁する。秀忠天正18年1590年)に上洛し、織田信雄の娘で秀吉養女である小姫縁組をしていたが、小姫死去により婚礼には至らなかった。秀忠との間には慶長2年1597年)の千姫を頭に家光忠長和子など2男5女を儲けた慶長5年1600年)、豊臣秀頼摠見寺堂宇増築し織田信長廟を安土城天主跡に造営しているが、その後、江が西尾隠岐守義次に造営命じている。 大坂の陣では豊臣家滅亡して姉の淀殿を失う。元和2年5月7日養源院淀殿・秀頼の菩提を弔う淀殿が父・浅井長政供養のために建立したこの養源院が、元和5年1619年)に火災焼失すると、江の願い元和7年1621年)に幕府再建している。寛永3年1626年9月15日江戸城西の丸死去享年54法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸禪定尼」。この時、秀忠家光忠長上洛であった11月28日従一位追贈される。 死後長男家光によって増上寺東京都港区)に埋葬された。 京都市左京区黒谷町金戒光明寺には宝篋印塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽仁淸」。和歌山県高野町金剛峰寺には、五輪塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。また同寺院には六角宝塔卵塔もあり、碑銘には「崇源院殿源夫人昌譽大姉」とある。

※この「徳川秀忠への再嫁から晩年」の解説は、「崇源院」の解説の一部です。
「徳川秀忠への再嫁から晩年」を含む「崇源院」の記事については、「崇源院」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「徳川秀忠への再嫁から晩年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徳川秀忠への再嫁から晩年」の関連用語

1
8% |||||

徳川秀忠への再嫁から晩年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徳川秀忠への再嫁から晩年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの崇源院 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS