徳川綱吉の時代
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延宝8年(1680年)、家綱は子供の無いまま亡くなり、家綱の弟である館林藩主徳川綱吉が後を継いだ。綱吉が5代将軍に就任したすぐの時期に大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に殿中で刺殺されたこともあり、側用人の柳沢吉保が実権を掌握した。 綱吉は館林藩主の頃より儒学を好んで学んでおり、それが政策に反映された。綱吉は天和3年(1683年)、天和の武家諸法度を発布した。これには「文武忠孝ヲ励マシ、礼儀ヲ正スヘシ」と記載されており、従来の元和の武家諸法度に記載されていた「弓馬の道」から大きく内容を変え、主君に対する忠と父祖に対する孝を基盤とした礼儀による秩序を構築するものであった(また、家綱の頃に採用された末期養子の禁の緩和が明記された)。礼儀による秩序を構築・強化する為に以下のような施策を行った。将軍権威の浮揚の為に朝廷政策も緩和され禁裏御領を1万石加増し、湯島聖堂を建立し、林鳳岡を大学頭に任命した。 また、綱吉には後継者がいなかったため、貞享4年(1687年)に動物愛護令である生類憐れみの令を発布した。これにより、江戸幕府の財政難に拍車がかかったことは否めないが、一方で同時期に出された服忌令、捨子禁止令からも見られるように、道徳観を民衆に扶植することで、文治政治を強化する狙いがあったともいえよう。 綱吉並びにその母である桂昌院の散財、生類憐れみの令の採用等と相俟って先代家綱の頃からの慢性的な財政赤字は先述のように悪化していった為、勘定吟味役(後に勘定奉行)に荻原重秀を登用し、元禄改鋳を行い、幕府は貨幣発行益を得たものの、インフレーションを招き庶民の生活を苦しめることとなった。一方で上方を中心に元禄文化が栄えることとなった。また、長崎会所を設置し長崎貿易の制限を行った。
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