朝廷政策とは? わかりやすく解説

朝廷政策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「朝廷政策」の解説

上洛果たした後、信長は、御料所回復はじめとする朝廷財政再建実行し、その存立基盤維持務めたとはいえ信長皇室尊崇していたための行動というわけではなく、天皇権威利用しようしたものだと考えられている。なお、天正3年権大納言右近衛大将任官以後信長公家に対して一斉に所領宛行っており、それ以後信長公家から参礼を受ける立場となった信長朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立克服説)と融和的協調的な関係にあったとする説(融和協調説)がある。両者の関係については、織田政権性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代今谷明正親町天皇信長への最大対抗者として位置づけた『信長天皇 中世的な権威挑む覇王』を上梓し、多大な影響与えたが、その後実証的な研究により、この今谷主張はほぼ否定された。2017年現在は、信長天皇朝廷協力的な関係にあったとする見方が有力となっている。 平井上総および谷口克広分類によればそれぞれの説に立つ論者以下のとおりである。 信長天皇朝廷の関係対立克服融和協調奥野高廣 脇田修 朝尾直弘 橋本政宣 藤木久志 三鬼清一郎 秋田裕毅 池享 今谷明 堀新 立花京子 谷口克広 藤井譲治 池上裕子 藤田達生 神田千里 桐野作人 山本博文 金子拓 信長天皇超越しようとしたかどうかについては、宣教師対す信長発言がしばしば注目されるルイス・フロイス書簡によれば宣教師天皇への謁見求めた際、信長は「汝等他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と発言したとされる松田毅一翻訳した日本巡察記』(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文当該部分には、ポルトガル語国王意味するreiではなく宣教師たち天皇の意味用いていた「Voオー)」が使われいるからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる。 この発言天正9年京都馬揃え直前なされたこのように信長自身天皇内裏であると述べたことについて、信長天皇超越しようとした証拠であるとして重視する者もいる。しかし、この説について平井上総疑義呈しており、堀新信長皇位簒奪意図を示すものではなく融和説(「公武結合王権論」)の立場から、正親町天皇信長一体化意味した発言だと述べる。 信長朝廷の関係を考える際の具体的な手がかりとしては、いわゆる三職推任問題をはじめ、正親町天皇譲位問題蘭奢待切り取り京都馬揃え勅命講和など多様な論点があり、研究者間で解釈別れている。以下、代表的なもの絞って時系列順で見ていく。 足利義昭追放後天正元年1573年12月信長正親町天皇譲位申し入れ行い天皇もこれを了承した。が、年が押し迫っていたため譲位行われず結局信長の死まで譲位行われなかった。これについて、対立説の解釈では、信長自身言いなりとなる誠仁親王即位させようとし、この動き正親町天皇抵抗したことで譲位遅延した考える。一方融和説では、天皇譲位望みながら、信長意向により実現しなかったとみている。 信長天正2年1574年3月奈良訪問し同月28日東大寺寺宝である名香蘭奢待多聞山城運び込ませ、東大寺僧侶立ち会いの下でこれを切取らせている。その直前出されたと見られている東山御文庫所蔵の「蘭奢待開封内奏状案」(勅封三十五函乙-11-15)が保管されている。この文書の内容蘭奢待切取に対する不満を吐露したものであったことから、古くから「信長不法難詰セラル」(『大日本史料天正2年3月28日条)と解釈され長年"正親町天皇信長による蘭奢待切取の奏請対する不満を吐露し書状"として理解されてきた。しかし、内奏状は本来天皇充て出される文書であるのに天皇心境述べられている矛盾指摘され金子拓を切取の手続に関与した三条西実枝から正親町天皇充てられた書状再解釈した。つまり、この文書筆者正親町天皇では無く三条西実枝である以上、不満を吐露したのも正親町天皇ではないことになる。そして、不満の対象書状宛先である正親町天皇その人考えるしか無く少なくても"正親町天皇信長奏請対する不満を吐露し書状"ではないと結論づけている。 信長天正9年1581年)に行った京都御馬揃えについて、対立説では、朝廷への軍事的圧力示威行動であったと見る。これを批判する立場から、融和説では、朝廷側の希望によって行われたものだと解釈する2017年現在では、朝廷対す圧力というより、一種娯楽行事であったとする見解が有力となっている。 天正10年1582年4月25日武家伝奏勧修寺晴豊京都所司代村井貞勝の間で信長任官について話し合い持たれた。この際信長征夷大将軍太政大臣関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官申し出たのが朝廷信長側かめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側から正式な反応が行われる前に本能寺の変起こったため、信長どのような構想持っていたか、正確なところは不明である。

※この「朝廷政策」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「朝廷政策」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。

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