朝廷政策
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上洛を果たした後、信長は、御料所の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた。とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている。なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった。 信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある。両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代に今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている。 平井上総および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである。 信長と天皇・朝廷の関係対立・克服説融和・協調説奥野高廣 脇田修 朝尾直弘 橋本政宣 藤木久志 三鬼清一郎 秋田裕毅 池享 今谷明 堀新 立花京子 谷口克広 藤井譲治 池上裕子 藤田達生 神田千里 桐野作人 山本博文 金子拓 信長が天皇を超越しようとしたかどうかについては、宣教師に対する信長の発言がしばしば注目される。ルイス・フロイスの書簡によれば、宣教師が天皇への謁見を求めた際、信長は「汝等は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と発言したとされる。松田毅一が翻訳した『日本巡察記』(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる。 この発言は天正9年京都馬揃えの直前になされた。このように、信長が自身を天皇・内裏であると述べたことについて、信長が天皇を超越しようとした証拠であるとして重視する者もいる。しかし、この説について平井上総は疑義を呈しており、堀新も信長の皇位簒奪の意図を示すものではなく、融和説(「公武結合王権論」)の立場から、正親町天皇と信長の一体化を意味した発言だと述べる。 信長と朝廷の関係を考える際の具体的な手がかりとしては、いわゆる三職推任問題をはじめ、正親町天皇の譲位問題、蘭奢待の切り取り、京都馬揃え、勅命講和など多様な論点があり、研究者間で解釈が別れている。以下、代表的なものに絞って時系列順で見ていく。 足利義昭追放後の天正元年(1573年)12月、信長は正親町天皇に譲位の申し入れを行い、天皇もこれを了承した。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。これについて、対立説の解釈では、信長は自身の言いなりとなる誠仁親王を即位させようとし、この動きに正親町天皇が抵抗したことで譲位が遅延したと考える。一方、融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の意向により実現しなかったとみている。 信長は天正2年(1574年)3月に奈良を訪問し、同月28日に東大寺の寺宝である名香・蘭奢待を多聞山城に運び込ませ、東大寺の僧侶立ち会いの下でこれを切取らせている。その直前に出されたと見られている東山御文庫所蔵の「蘭奢待香開封内奏状案」(勅封三十五函乙-11-15)が保管されている。この文書の内容が蘭奢待切取に対する不満を吐露したものであったことから、古くから「信長ノ不法ヲ難詰セラル」(『大日本史料』天正2年3月28日条)と解釈され、長年"正親町天皇が信長による蘭奢待切取の奏請に対する不満を吐露した書状"として理解されてきた。しかし、内奏状は本来天皇に充てて出される文書であるのに天皇の心境が述べられている矛盾が指摘され、金子拓を切取の手続に関与した三条西実枝から正親町天皇に充てられた書状と再解釈した。つまり、この文書の筆者が正親町天皇では無く三条西実枝である以上、不満を吐露したのも正親町天皇ではないことになる。そして、不満の対象も書状の宛先である正親町天皇その人と考えるしか無く、少なくても"正親町天皇が信長の奏請に対する不満を吐露した書状"ではないと結論づけている。 信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、対立説では、朝廷への軍事的圧力・示威行動であったと見る。これを批判する立場から、融和説では、朝廷側の希望によって行われたものだと解釈する。2017年現在では、朝廷に対する圧力というより、一種の娯楽行事であったとする見解が有力となっている。 天正10年(1582年)4月25日、武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような構想を持っていたか、正確なところは不明である。
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