朝廷財政の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/28 09:27 UTC 版)
この事件を受けて、幕府では賄頭2名と勘使4名中上位2名は必ず勘定方の幕臣を任じることとし、口向役人の登用・加増は必ず所司代の許可を得ることとした。さらに新規の物品調達に関して禁裏附が関与することや御用達の定数の決定などの朝廷財政の改革が行われた。そして、安永7年(1778年)には既に他の幕府機関では導入されていた定高制が導入され、朝廷に対する年間の取替金の上限が定められて、それは事実上の朝廷財政の上限と同じとされた。しかし、幕府にとってもこの上限が朝廷の活動の縮小を招くものであってはならないというジレンマもあり、事実上目標に留まったために毎年の支出は定高を上回った。松平定信が寛政の改革を始めると、内裏の再建問題もあって、朝廷に厳しい倹約令の励行を求める一方、寛政2年(1790年)には取替金を貸付金から支給金に切り替えて享保以来の取替金の返済を全て免除して定高の範囲内での財政支援を確約する一方で、定高を厳守させ臨時の取替金は認めない方針に変更した(もっとも、朝廷は長年にわたって毎年のように取替金の貸与を受けてきたため、貸付は名ばかりになっていた)。反面、幕府としても天皇や上皇の日常生活に支障を来たす事態に陥ることは回避する必要があり、幕府財政の規律に朝廷財政を従わせることと朝幕関係の維持のバランスに頭を悩ませることになった。
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