安永の御所騒動
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安永の御所騒動(あんえいのごしょそうどう)とは、安永2年(1773年)から翌3年(1774年)にかけて、朝廷の経理・総務実務を行ってきた口向役人の不正が江戸幕府によって摘発された事件である。
江戸幕府と朝廷財政
江戸時代の朝廷財政は幕府によって保護された御料からの収入が主体で、不足分は幕府からの取替金と呼ばれる無利子の融資などによる財政支援によって維持されていた。言うなれば、この時代の朝廷財政は幕府財政に強く規定される性質を有していた[1]。このため、江戸幕府としても朝廷財政には無関心というわけには行かず、禁裏附と呼ばれる役人を御所に派遣していた。だが、口向の実務責任者である賄頭(朝廷の地下官人および幕臣からそれぞれ1名ずつで、幕臣側が空席になったために地下官人側がその欠を埋めた時期もあった)やこれを補佐する勘使(定員4名前後)をはじめとする口向の行動をチェックすることは、禁裏附と(幕府派遣の)賄頭1名の計2名の幕臣のみでは困難で、さらにその任免も幕府内の通常の人事異動によってしばしば変更され、かつその人選も経理などの専門知識が考慮されたものではなかった。取替金の可否を決定する京都所司代や取替金の出元となっていた京都代官も口向のことまでは関与できなかった。一方、口向の役人は地下官人による世襲が確立しており、専門知識を備えた人々であった。さらに禁裏以外にも仙洞御所や女院御所にもそれぞれの口向役人が存在した。
倹約と支出調査
18世紀に入ると幕府財政も次第に逼迫するようになり、明和8年(1771年)4月に幕府が諸機関に対して倹約を指示すると所司代も取替金の支出には慎重になるとともに、勘定所も倹約への協力を求めるために朝廷財政の支出調査に乗り出すようになった[注釈 1]。ところが、その過程で架空購入などの実態のない財政支出が行われて、御料からの物成(貢租)や幕府からの取替金の一部に口向役人による横領の疑惑が浮上した。
そのため、安永2年10月15日(1773年11月28日)、新任の京都西町奉行である山村良旺[注釈 2]が幕命を受けて京都に入ると、直ちに地下役人側の賄頭である田村肥後守ら主要な口向役人5名[注釈 3]を奉行所に呼びつけて吟味を開始した。また、山村からの連絡を受けた京都所司代土井利里も武家伝奏である広橋兼胤と姉小路公文を役宅に招き入れ、田村らの吟味を伝えるとともに、朝廷に対して5名の解官と揚屋入り(収監)の承諾を要請した。兼胤らは関白近衛内前に事態を報告、内前は所司代には解官は朝廷の責任で行うことを伝えると、その日のうちに朝廷は当事者の解官と位記返上命令を出した。
取り調べと処分
取り調べ
翌日以降、口向役人数十名の取り調べが行われ、勘定方の役人で唯一上方に常駐していた大坂の銅座担当の中井清太夫を京都に呼び寄せて取調に加えた。さらに御所などに出入りする御用達の商人たちからも事情聴取を行った。その結果、役人たちは帳簿の改竄や横領だけではなく、商人たちからの収賄や幕府が朝廷財政に干渉することへの批判や京都所司代や禁裏附を軽侮する発言をしていた事実などが明るみに出た[7][注釈 4]。
処分
これに対して後桃園天皇・後桜町上皇・2名の女院(青綺門院・恭礼門院)は口向役人たちの助命を嘆願するものの、幕府はそれを拒絶。翌年8月26日になって京都所司代から武家伝奏に対して、取調の調査報告及び先の5名の解官後に幕府より暫定的な業務の見直しや綱紀粛正の指示が出されているのに改善の気配がないことも問題視する通告が行われている[10]。翌日、処分内容が発表され、田村肥後守ら賄頭・勘使4名[注釈 5]を死罪、勘使・仙洞取次ら5名の遠島を始めとする侍身分(六位以上)の者66人、それ以下の役人(下部)88名の両方合わせて154名が処罰の対象とされたと伝えられている[12][13]が、細谷篤志の集計によれば、侍身分80名(死罪含め)、下部100名の合計180名が処罰の対象となったとしている。事件後の寛政9年(1797年)に作成された定員案では侍身分169名、下部193名とされているため、事件当時もほぼ同規模とすれば半数近い役人が処分されたことになる。それ以外に御用達の商人145名も処罰され、更に連座対象とされた処分された役人の子弟を含めると全体の処罰者は330名に及ぶ[8]。さらに世襲である京都代官の小堀邦直も謹慎処分とされた。
ただし、幕府側としても口向役人の半数が処罰される事態は想定されていなかったらしく、家名断絶に至ったのは7家[注釈 6]に留まり、罪状と比較して処罰を減免されたり[注釈 7]、追放処分に付加される家財取上(財産没収)は免除されたりするなどの措置が取られて家名存続の配慮がされた[14]。 ・
事件の評価
なお、この事件において天皇や上皇・女院による口向役人の助命要請を幕府が取り合わなかったことから、これを幕府による朝廷への圧迫として朝廷の反発を招き、宝暦事件や尊号一件の遠因となったとする説[15]もあるが、経験豊富な役人を多数失ったことによる朝廷の事務的混乱はあった[16]ものの、関白の近衛内前は穏便な処置を希望しつつも幕府の吟味は止むを得ないという考えを一貫して示しており[17]、野宮定晴も言語道断で朝廷の恥であると口向役人を糾弾している[18]。この事件で処分された堂上公卿はおらず、地下官人のみが処罰の対象であったことから、公卿たちは幕府の措置を容認・支持していたと考えられている。
朝廷財政の改革
この事件を受けて、幕府では賄頭2名と勘使4名中上位2名は必ず勘定方の幕臣を任じることとし、口向役人の登用・加増は必ず所司代の許可を得ることとした。さらに新規の物品調達に関して禁裏附が関与することや御用達の定数の決定などの朝廷財政の改革が行われた。そして、安永7年(1778年)には既に他の幕府機関では導入されていた定高制が導入され、朝廷に対する年間の取替金の上限[注釈 8]が定められて、それは事実上の朝廷財政の上限と同じとされた。しかし、幕府にとってもこの上限が朝廷の活動の縮小を招くものであってはならないというジレンマもあり、事実上目標に留まったために毎年の支出は定高を上回った。松平定信が寛政の改革を始めると、内裏の再建問題もあって、朝廷に厳しい倹約令の励行を求める一方、寛政2年(1790年)には取替金を貸付金から支給金に切り替えて享保以来の取替金の返済を全て免除して定高の範囲内での財政支援を確約する一方で、定高を厳守させ臨時の取替金は認めない方針に変更した(もっとも、朝廷は長年にわたって毎年のように取替金の貸与を受けてきたため、貸付は名ばかりになっていた)。反面、幕府としても天皇や上皇の日常生活に支障を来たす事態に陥ることは回避する必要があり、幕府財政の規律に朝廷財政を従わせることと朝幕関係の維持のバランスに頭を悩ませることになった。
脚注
注釈
- ^ 明和6年(1769年)の仙洞御所の普請を機に調査の動きが始まり、翌年正月に老中松平武元の命令で勘定吟味役川井久敬が京都に派遣されている。武家伝奏の広橋兼胤も支出調査が本格化した安永元年(1772年)の日記[2]にこの動きは去々年の川井の上洛以来、勘定吟味役と京都所司代の間で進められていたと記している[3]。
- ^ 当時の京都東町奉行である赤井忠晶は町代や火消などの京都市中の行政制度改革に従事していた[4]。佐藤は赤井(市中の行政改革)と山村(朝廷の財政改革)の間で業務の分担があったとすると共に、口向役人と京都の商人・町人との関わりから両者の関係性の存在を指摘している[5]。
- ^ 賄頭の田村肥後守・飯室左衛門志両名、仙洞取次の高屋遠江守、賄頭加勢・勘使兼役の津田能登守、買物使の西池主鈴の5名[6]。後述のように田村・津田・西池は後日死罪とされている。
- ^ 収賄や幕府批判の言動以外の具体的な事例を挙げると、「納入された品物の目方が少ない」と称して代金の一部を掠め取る、通常は不正を防ぐために漢数字は「壱・弐・参・肆……」表記にするところを「一・二・三・四……」表記にしてその数字を改竄する、予定よりも余った米を不正に貰い受ける、使い残した品を勝手に返品してその代金を懐に入れるなどが上げられる[8]。また、御用達の商人・町人については基本的には役人への贈賄や癒着がほとんどで、癒着の具体例としては見積額を高く設定して実際の代金との差額を役人に渡すなどが上げられるが、大半が役人主導のものであることから御用達の差し止め及び過料処分とされている。ただし、御用達側も利益を得ていた場合には罪が重くなり、役人と共に饗応を受けた6名が急度叱、差額を役人を分け合った4名が所払となり、このうち八文字屋善兵衛は取調に対して虚偽の発言したこともあって唯一所払に「家財取上(財産没収)」が加えられている[9]。
- ^ 安永2年10月15日に摘発・解官処分とされた5名のうち、牢死した飯室左衛門志と遠島処分とされた高屋遠江守を除く3名と翌日に追加された賄頭加勢・勘使兼役の服部左衛門志の4名。なお、飯室は罪を認めて不正の実態について証言をしたことから、健在であった場合でも中追放に減刑する予定であったという。また、高屋も実際の配流前に病死している[11]。
- ^ 死罪を出した田村・津田・西池・服部の4家と遠島となった山本・関目、中追放になった山村の諸家。
- ^ 例えば、御所の御膳を担当する板元は責任者である吟味役は筆頭は中追放の処分とされたものの、一般の板元は急度叱とされた。これは一般の板元まで重い処分をしてしまうと、天皇や上皇、女院の日常の食事が出来なくなってしまうからである。
- ^ 口向は御料からの租税と取替金の合計745貫目・天皇の生活の場である奥は御料からの租税と取替金の合計800両および各方面からの献上の範疇で賄うことが求められた[19]。
出典
- ^ 佐藤、2016年、P9.
- ^ 『兼胤記』安永元年12月21日条
- ^ 佐藤、2022年、P72-73.
- ^ 塚本明「近世中期京都の町代」朝尾直弘教授退官記念会 編『日本社会の史的構造』思文閣出版、1995年
- ^ 佐藤、2022年、P79-80.
- ^ 細谷、2022年、P22.
- ^ 『兼胤記』安永3年8月26日条・三井家京両替店『京都聞書』安永3年10月条
- ^ a b 細谷、2022年、P25.
- ^ 細谷、2022年、P27・42.
- ^ 細谷、2022年、P24.
- ^ 細谷、2022年、P25・30・32.
- ^ 奧野高廣『皇室御経済史の研究 後編』1944年、中央公論社、P447-448.
- ^ 佐藤、2016年、P75-76.
- ^ 細谷、2022年、P26.
- ^ 高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P181.
- ^ 『兼胤記』安永3年9月5日条
- ^ 『兼胤記』安永3年5月19日・8月25日条
- ^ 『定晴卿記』安永2年10月15日条
- ^ 佐藤、2016年、P7.
参考文献
- 佐藤雄介『近世の朝廷財政と江戸幕府』東京大学出版会、2016年 ISBN 978-4-13-026242-2
- 第1部第2章「享保ー寛政期の朝廷財政と朝幕関係」P45-71.(原論文:「十八世紀の朝廷財政と朝幕関係」藤田覚 編『十八世紀日本の政治と外交』(山川出版社、2013年))
- 第1部第3章「口向役人不正事件と勘定所」P72-93.(原論文:『東京大学日本史学研究室紀要』別冊・吉田伸之先生退職記念「近世社会史論叢」(2013年))
- 佐藤雄介「口向役人不正事件と江戸幕府の遠国都市政策」(PDF)『学習院大学文学部研究年報』第68号、2022年。
- 細谷篤志「「安永の御所騒動」における口向役人一斉処罰の実態」(PDF)『学習院史学』第60号、2022年。
関連項目
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