倹約と支出調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/28 09:27 UTC 版)
18世紀に入ると幕府財政も次第に逼迫するようになり、明和8年(1771年)4月に幕府が諸機関に対して倹約を指示すると所司代も取替金の支出には慎重になるとともに、勘定所も倹約への協力を求めるために朝廷財政の支出調査に乗り出すようになった。ところが、その過程で架空購入などの実態のない財政支出が行われて、御料からの物成(貢租)や幕府からの取替金の一部に口向役人による横領の疑惑が浮上した。 そのため、安永2年10月15日(1773年11月28日)、新任の京都西町奉行である山村良旺が幕命を受けて京都に入ると、直ちに地下役人側の賄頭である田村肥後守ら主要な口向役人5名を奉行所に呼びつけて吟味を開始した。また、山村からの連絡を受けた京都所司代土井利里も武家伝奏である広橋兼胤らを役宅に招き入れ、田村らの吟味を伝えるとともに、朝廷に対して5名の解官と揚屋入り(収監)の承諾を要請した。兼胤らは関白近衛内前に事態を報告、内前は所司代には解官は朝廷の責任で行うことを伝えると、その日のうちに朝廷は当事者の解官と位記返上命令を出した。
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