倹約・統制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)
田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させた。富を商品流通構造に係わる一部の生産者へと集中することによる貧富の差の拡大が進行し、小農の経営を破壊し、離村する農民の増加を促した。離村した貧農は都市へと流出し、農地は「手余り地」となって、耕作されずに放置され、農村の荒廃を生んだ。こうした傾向は、天明の飢饉の到来により一層拍車をかけた。「宇下人言」の記載には「天明午のとし諸国人別改められしに、まへ之子のとしよりは、諸国にて百四十万人減じぬ」と書かれており、これは、午年(1786年)の人別帳を見ると、その前の調査年(1780年)と比較して農業人口が140万人も減少していると述べた記載である。これは当時の全人口は3千万人の約4.6%の数値となる。この人別帳からいなくなった140万人は、すべてが天明の大飢饉で死んだわけでなく、その多くが人別帳を離れて江戸などの都市へ流入するなどして離村や無宿化し社会問題化していた。 農村が武家財政の基盤であったため、前代の飢餓対策の不徹底によりおこったこれらの負債は、年貢収入の激減に直結し幕府財政は極度に窮迫した。また、多くの下層農民が離村して都市へと流入するようになると、地主にとっても悪影響をもたらすようになった。それは農村人口が減少して小作人が不足し、農業生産に支障をきたすようになったからである。天明期になると労働力不足の結果、地主経営も難しくなってきており、農村自体に行き詰まりが見られるようになっていた。また、離村による都市貧民層の形成は都市のあり様をも大きく変化させていた。天明期になると大商人や武士への奉公人になろうとする人が激減し、奉公人の給与が高騰するといった事態が発生していた。幕府は田沼時代からたびたび奉公人の給料高騰を取り締まる法令を出すが全く効果が無かった。 松平定信は、このような大量離村での社会問題に加え、社会の変化により離村者や非農業従事者の増加、商業的農業の拡大による米の減産と、農家の奢侈化により米の消費の増大といった事による余剰食糧の減少によってふたたび飢饉が起こった時、食糧危機からの被害が拡大することを警戒していた。そして、その対策として倹約や風紀粛正した。定信は「宇下人言」の中で、倹約令と風俗統制令を発すると江戸の景気が悪くなり零細商人、職人、博徒、無宿が困窮することによって、武家や町方の奉公人と帰農者の数が増大し、奉公人の給与は下がり、帰農者は増え、手余り地の復興が成し遂げられるだろうという思わくを書いている。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった(p102)。 寛政3年9月、機内以外の地域において換金性の高い綿花や菜種などを除いた商品作物の栽培を制限した。
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