都市貧民層の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)
「天明の打ちこわし」の記事における「都市貧民層の形成」の解説
農村の疲弊によって都市に大勢の人々が流入する一方で、都市そのものにも変化が生じていた。これまで幕藩体制を都市内部から支えてきた地縁や職能によって結びついてきた町の機能が低下し、都市内部に都市貧民層が形成されるようになったのである。当時の都市における都市貧民層は、棒手振りなどの零細商人や、そして大商人や武士の家などに奉公に出ている人々などであった。これら下層町民は大商人による資本の集積のあおりを受けた中小商工業者の没落や、農村からの人口流入によって新たに形成されていったものであった。 また都市貧民層の形成は都市のあり様を大きく変化させるものであった。例えば天明期になると大商人や武士への奉公人になろうとする人が激減し、奉公人の給与が高騰するといった事態が発生していた。幕府は田沼時代からたびたび奉公人の給料高騰を取り締まる法令を出すが全く効果が無かった。これは都市生活者が窮屈な奉公人生活を嫌い、都市の拡大によって発達した飲食業などのサービス業などに従事する方を選ぶという現象が発生していたためである。都市貧民層であっても米価高騰時などを除き、零細商工業や日雇いなどで何とか家族を養えるだけの収入は得られたため、制約が多く窮屈な奉公人を忌避するようになったのである。そして天明期になるとこれまで都市の下層民では数少なかった妻帯者が増加していた。これは延享4年(1747年)には男性32万人余り、女性19万人あまりと男性人口が6割を超えていた江戸の町方人口が、天保期になると男性約55パーセント、女性約45パーセントと女性の比率が高まったことからも裏付けられる。都市で生計が立てられる上に妻帯者が増加した結果、都市貧民層は制約が多い農村生活へ戻ろうとは考えず、通常時は農村と比較して自由で安楽である都市に定着し続けるようになった。。 当時の都市下層民の生活実態は極めて不安定で、飢饉や災害、手取りの給料の減少、そして銭相場の下落などといった要因で容易に困窮状態へと陥り、無宿人などに転落した。このような都市下層社会の形成は江戸、大坂、京都という当時の三都のみならず、全国各地の都市で進みつつあった。このような都市下層社会の成立は、自らの労働力以外失うものが何もない階層の誕生を意味し、身分制社会であった江戸時代にはこれまで見られなかった社会問題が発生することになった。 こうした都市下層社会の多くの構成員が生活に困窮すると、都市では打ちこわしという現象がしばしば発生するようになる。それは生活に余裕がなく不安定な都市下層民にとって、米価などの物価高騰や銭の価値の下落は飢餓や無宿への転落といった深刻な生活危機に直結するため、危機感に襲われた民衆が打ちこわしという直接行動に訴えるためである。天明7年の5月から6月にかけて全国各都市で同時多発的に発生した打ちこわしは、異常な米価高騰が引き金となって発生した典型的な都市打ちこわしであった。
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