都市近郊路線の電化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:22 UTC 版)
蒸気機関車の運転は煙突から大量の煙や火の粉を発生させるため、家屋の建て込んだ都市内への乗り入れは反対される場合が多かった。その点、電車はそのような環境問題も無く、方向転換が簡単な上単機や短編成での運行が容易で、都市近郊のフリークェントサービスに適している。明治末から大正にかけて、都市近郊に建設された路線は最初から電化していたり、あるいは蒸気機関車運転であったものを電化する例が多数見られた。 1899年、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄大師線)の六郷橋駅 - 川崎大師駅2.5 km間が、初の標準軌を採用した電気鉄道として開業。川崎大師への参拝者を運ぶ目的で建設された。 普通鉄道としては、1904年に甲武鉄道(現在のJR東日本中央本線)飯田町駅 - 中野駅間が、蒸気運転から一部移行する形で電化された。使用した電車は、台車や電機品がアメリカ製、木造車体は国産で、架線電圧は直流600 Vであった。電化と同時に自動信号機を設置し、5分から10分の運転間隔で電車を走らせた。この無煙化による快適性向上とフリークェントサービスによる利便性向上で沿線人口が増え、都市化が進んだ。この後、日本各地で鉄道敷設による郊外住宅の開発・発展が進む。 1905年、都市間の電車鉄道が東西で開通した。関東では上記大師電気鉄道の品川駅 - 神奈川駅間、阪神間では阪神電気鉄道の梅田駅 - 三宮駅間である。阪神電気鉄道は一部道路上を走る軌道扱いであるが、開通時からボギー台車を備えた高速電車を使用し、国鉄から多くの客を奪った。 元日本鉄道の保有路線であった山手線も、1909年に電車運転に切り替えられた(なお、環状運転化は1925年)。車両は単機運転ながらボギー台車の大型車で、使用する電力は国鉄自前の火力発電所から送られていた。 1910年には、関西地区で2社が電車運転を始めた。京阪電気鉄道は名前の通り京都と大阪の間(天満橋駅 - 三条駅間)に路線を敷設、1914年には電車で初めて「急行」を運転する。また、箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄宝塚線・箕面線)梅田駅 - 宝塚駅・箕面駅間も開業。当初は満足な乗客数が見込まれなかったため(ミミズ電車とも揶揄されていた)、創設者の小林一三は乗客誘致のために宝塚温泉に少女歌劇を創設、現在の宝塚歌劇団である。 1911年、京成電気軌道(後の京成電鉄)が押上駅 - 市川駅間を開業。社名の由来となった、最終目的地の成田まで延伸したのは1926年であった。 1913年、京王電気軌道(後の京王電鉄)が笹塚駅 - 調布駅間で営業開始。 1914年、大阪電気軌道(後の近畿日本鉄道)の上本町駅 - 奈良駅間が開通。 この時期、私鉄のインターアーバン型路線の拡大・発展が顕著になりつつあった。小林一三が率いた阪神急行電鉄では、沿線開発や百貨店などの副業を路線敷設とセットで行うなど、現在の日本における鉄道経営のモデルを作り出している。また東武鉄道や参宮急行電鉄など、100 kmをゆうに超す長距離運転を行う会社、阪和電気鉄道や新京阪鉄道など、現在でも遜色ないほどの高速運転を行う会社も現れた。また都市交通機関としても、路面電車のほかに地下鉄(1927年、東京地下鉄道を初とする)やトロリーバス(1928年、日本無軌道電車が初)などが出現した。地方路線でも、1921年(大正10年)に初めてガソリン気動車が好間軌道で導入されるなど、近代化の試みは少しずつながら、進められた。
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