都市造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持つ。まず、頼朝は居館の建築と、鶴岡八幡宮の整備を行う。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における内裏に匹敵するもので、中央から下向した天台宗・真言宗の僧が、供僧として運営の主導権を握っていた。そこでは放生会といった年中行事が整備される一方、それに際し奉納される流鏑馬や笠懸は武家社会を代表する重要行事となった。 新造の武家の都を飾る建設は続き、源義朝の菩提勝長寿院や、平泉は中尊寺の二階大堂を模した奥州合戦や数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院永福寺、13世紀に入ると寿福寺・東勝寺といった禅宗の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、北鎌倉には渡来僧を開山とする建長寺や円覚寺などの巨刹が偉容を示す。
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