価値の下落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:42 UTC 版)
紙幣は金属貨幣に比べて発行が容易だが、価値を維持するために発行額や回収額の管理が重要となる。元政府は前半においては政策が成功していた。しかし明政府は当初から宝鈔の価値を積極的に維持する政策がなく、洪武帝の時代から価値の下落が始まった。1376年(洪武9年)は鈔1貫=米1石だったが、1385年(洪武18年)は鈔1貫=0.4石、1397年(洪武30年)は鈔1貫=米0.2石、1402年(建文4年)は鈔1貫=米0.1石となった。銅銭との公定レートは鈔1貫=1000文が固定されていたが、民間では銅銭に対する宝鈔の下落が進んだ。民間でのレートとして、1390年(洪武23年)は鈔1貫=銭250文、1394年(洪武27年)は鈔1貫=銭160文という記録がある。 宝鈔の価値を維持するために、元でも行われていた倒鈔法が実施された。これは破損したり古くなった宝鈔(昏鈔)を3パーセントの費用で新札に交換するものであり、そのための組織として行用庫が設立された。交換を保証して宝鈔の下落の防止を狙うはずだったが、制度としての運用は不十分だった。その理由として、民間による昏鈔のレート問題があった。民間では、昏鈔を使う取引では通常の宝鈔の2倍の価格になっており、胥吏はこれを利用して利鞘を稼いだ。宝鈔は二重価格が存在したことになり、1390年(洪武23年)にはこの行為が発覚して行用庫は廃止された。行用庫の廃止は、明政府が宝鈔の二重価格を放置する結果につながり、宝鈔の価値はさらに不安定になった。 明政府は対策として、銅銭の発行停止と金銀使用の禁止を合計7回実施したが、民間の銀使用は止まらず、銀の価値を高めて宝鈔の下落が続く結果となった。明政府はさらなる対策として、塩の強制販売をして宝鈔で支払わせる戸口食塩法(1402年)を制定した。永楽帝の時代には、首都を南京から北京に遷都する費用の調達が必要となった。そこで1409年(永楽7年)に北京に宝鈔提挙司を設置して宝鈔を増発したため、宝鈔は激しく下落した。宣徳帝の時代には江南経済の発展で実物経済が主軸となり、宝鈔の再建が試みられる。1429年(宣徳4年)からは運河に鈔関と呼ばれる関所を設置して宝鈔で船料を徴収したが、宝鈔の価値は維持できなかった。
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