朝廷政治の刷新と雑訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 02:27 UTC 版)
雑訴は、公事とくらべ従来は軽視されてきたが、13世紀半ば以降いわゆる「徳政」の一環として重視されるようになる。弘安9年(1286年)12月には亀山上皇の院政において、院文殿に持ち込まれた訴訟処理の迅速化を企図し、院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰の二つに分け、雑訴沙汰には月6回中納言・参議クラスの公卿に評議させることとした。ここに雑訴沙汰は初めて一連の訴訟手続きとして独立することとなった。 また、後嵯峨天皇代に復活した記録所(記録荘園券契所)も訴訟沙汰を扱う機関であり、天皇の記録所と上皇の院文殿(院評定)が並んで公家の訴訟を処理する体制となっていた。父の後深草院の院政を停止して親政を開始した伏見天皇は、正応6年(1293年)6月には記録所機構を大幅に改編し、「庭中」が置かれて参議・弁官・寄人が配され、公事とともに雑訴沙汰も取り扱うようになった。なお同年7月に天皇が伊勢神宮に奉納した宸筆宣命案の中に「雑訴決断」の言葉が初めて出現している。 以上のごとく、院政が行われた時期には院文殿における院評定、親政が行われた時期には記録所が、雑訴の処理を行った。
※この「朝廷政治の刷新と雑訴」の解説は、「雑訴決断所」の解説の一部です。
「朝廷政治の刷新と雑訴」を含む「雑訴決断所」の記事については、「雑訴決断所」の概要を参照ください。
- 朝廷政治の刷新と雑訴のページへのリンク