朝廷執行部・幕府との対立
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「霊元天皇」の記事における「朝廷執行部・幕府との対立」の解説
貞享4年(1687年)、朝仁親王への譲位が行われることとなった。霊元天皇はこれに伴い、長年中断していた即位式と共に行われる大祭大嘗祭を行うことを強く要望した。大嘗祭再興については朝廷内にも財源と準備が不足であるとした、左大臣近衛基熙をはじめとする強い反対派が存在した。更に神仏分離を唱える垂加神道を支持してその教義に基づく大嘗祭を行おうとする一条冬経と神仏習合を唱える吉田神道を支持する近衛基熙という対立構図も存在していた。 幕府が理想とする上皇は朝廷に口出しせず、諸事質素であった明正上皇の姿であり、霊元も譲位後は「本院御所之格(明正上皇と同じ格)」であることが求められた。さらに霊元の素行に不信感を持っていた幕府は「当今之御まねヲ不被候儀二仕度候(東宮は霊元天皇の真似をしないようにしたい)」という考えもあり、新天皇が霊元の影響を受けないことを望んでいた。また、幕府は霊元が院政を開始することに反対の意思を示し、譲位後は政務に関与せず関白・武家伝奏・議奏によって朝廷運営が行われることを求めた。京都所司代土屋政直は天皇の機嫌を損ねて譲位の手続きが延引することを恐れており、綱吉も大嘗祭の再興には不安感を持っていたものの、大嘗祭の再興に関しては臨時支出を求めないという霊元側からの申し出もあり、最終的に大嘗祭を容認した。 こうして文正元年(1466年)以来219年ぶりの大嘗祭が行われたが、大嘗祭前後の節会が3日から1日に変更され、天皇が鴨川で禊を行う御禊行幸が幕府の反対で行われないなど、極めて簡略化されたものとなった。近衛基熙は御禊行幸の中止は神慮にかなわないとして反対し、霊元の兄の尭恕法親王もこの大嘗祭は朝廷も幕府も誰一人納得しておらず、神を欺くものであると強く批判した。このため、次の中御門天皇即位の際には大嘗祭は行うことはできず、再び中絶することとなる。霊元はこの他にも石清水八幡宮放生会や賀茂祭の再興を行っている。 霊元は太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し、以後仙洞様とよばれるようになる。霊元の院政は後水尾院政と異なり、朝廷の機構を掌握するのではなく、仙洞御所に別個の機構を確立して、そこから朝廷機構に指示を下すというものであり、以降江戸時代の院政の慣行となる。仙洞御所では霊元の意思で選定された院評定が合議を行い、霊元に任じられた院伝奏が幕府と連絡を取り扱った。また朝廷の主宰者であるという意識を強く持っており、東山天皇が成人するまで本来天皇が行う儀式である四方拝を仙洞御所にて行っている。 これら霊元の姿勢は朝廷執行部との確執を生んだ。元禄元年(1688年)10月、霊元と対立していた近衛基熙の正室常子内親王から霊元に対して基熙が左大臣を辞退する意向であることが伝えられている。表向きの理由は長年左大臣を務めたことで他の者が昇進できなくなっていることや譲位に関連する儀式が終わったことを上げている。しかし、霊元は将来的には基熙が関白に就任すべきであるとして慰留をしながらも、基熙の本心は関白昇進を一条冬経に先を越されたことで面目を失ったからだと指摘し、基熙が関白になれなかったのは「神慮」であると述べて却って基熙を憤慨させている(『基熙公記』元禄元年10月26日条)。その一方で、一条冬経からも基熙と同様の理由で摂関を辞退したいという意向が元禄元年2月と元禄2年10月に霊元に伝えられているが、霊元は2度とも慰留の意思を伝え、一条冬経が健康問題を理由として(2度目の)辞退の意向が固いと知るや将来の再任を前提としてこれを認めることを伝えている。かくして、元禄3年(1693年)1月、基熙が関白に就任することになった。 元禄3年10月、霊元は西本願寺に対し、門跡(法主)が参内の際には四足門透垣の外で牛車の下轅・乗轅をするように命じた。霊元の在位中は透垣の内で下轅・乗轅を行っていたことから、関白である近衛基熙や武家伝奏の千種有維・柳原資廉は困惑した。間もなく、天皇の外祖母である東二条局(河鰭秀子)の口入があり、霊元もこれに同調していることが判明する。霊元はこの新規定は西本願寺だけでなく、東本願寺・専修寺・佛光寺などの他の浄土真宗系の門跡に適用する方針であることを表明した。両本願寺などに対する院宣を受けた一条冬経は霊元の考えに賛同はするが先例を調べた上できちんと説明を尽くすことを求め、基熙が先例を改める必要がある場合でも霊元の行為は独断に過ぎると反対した。京都所司代の内藤重頼も上皇が相談もなくこのような決定を下したことに不満を抱いた。元禄4年(1691年)4月に入ると、西本願寺から基熙と京都所司代松平信興(内藤の後任)に対して門徒たちが納得しないので院宣の撤回の取り成して欲しいとの申し入れがあった。これを受けて4月8日に基熙は霊元と会談して院宣の撤回を申入れて霊元も一度はこれに同意をしたが、12日にはやはり撤回しない意思を表明した。西本願寺は東本願寺と協議をして上皇の院宣について江戸の幕府に訴えることを決め、松平信興も江戸を巻き込む前に院宣を撤回して事態を収めた方が良いと諫言した。5月5日になって霊元も撤回は止むを得ないという判断に傾いたが、一度出された院宣を撤回する訳にも行かず、最終的に5月16日になって基熙や両伝奏が提案した「院宣は撤回しないが、門徒たちの愁訴に応えて憐愍を示す」として透垣の内での牛車の下轅・乗轅を認めることで事態の収拾が図られた。結果的には霊元の院宣が関白以下の公家たちや京都所司代の反対で覆されたことになり、霊元の権威は傷つくことになった。 この騒動の中で、霊元は前関白一条冬経から朝廷執行部への政務の移譲を迫られた。4月14日、霊元はこれに対し、一般的な政務は移譲するが、重要事項には変わらず関与し続ける方針を示した。さらに院伝奏と院評定に宛て、関白・武家伝奏・議奏の朝廷執行部が霊元と天皇に忠誠を誓う誓詞を出すよう要請した。関白近衛基熙が「天魔の所為」と憤り、武家伝奏千種有維が「落涙の他言語なし、あい共に天を仰ぐのみ、朝廷の零落この日か」と嘆くなど、仙洞御所と朝廷執行部の亀裂はいよいよ深まった。この事態は幕府にとっても容認できるものではなく、5月23日、近衛基熙邸にて関白・武家伝奏・議奏・京都所司代・禁裏附という京都における公武の代表者が一堂に会合を開き、改めて譲位後の院政は不可であり、関白が中心として朝廷運営を行うべきであるとする幕府の方針が確認された。 この会合以降、霊元は表向きでは政治的な発言を控えるようになるが、一方の東山天皇も元禄4年時点でまだ17歳であり、実際には当面の間は近衛基熙が朝廷の運営を行い、並行して京都所司代や禁裏付の支援を受けながら親政への移行準備を進めることとされた。霊元上皇は表向きは反対をせず、元禄5年(1692年)には上皇から仙洞御所に持ち出された国史や記録を禁裏文庫に返還したいとの意向が示され、6月には仙洞御所にある文献の目録が天皇に贈られるが、朝廷内部より禁裏文庫の補修・増築の必要性が指摘されたために実際の返還は親政開始に合わせることになった。元禄6年9月12日には天皇の親政開始を前提として議奏の追加(中御門資熙・久我通誠・清水谷実業)が行われている。 ついに元禄6年(1693年)10月23日には、譲位後に霊元が政務に口出ししてはならないという将軍綱吉の意志が伝えられた(ただし、前述のように院政は事実上停止しており、親政への移行作業には京都所司代なども関与している)。これを受けて11月26日には政務の完全な移譲が行われた。しかし霊元上皇は裏面からの介入を諦めようとははしなかった。 東山天皇と近衛基熙が取り組んだのは、霊元の影響力排除であった。基熙は幕府と連携し、元禄13年(1700年)までに霊元派の公家を重職から排除している。また将軍綱吉も積極的に朝廷支援を行うようになり、宝永2年(1705年)には禁裏御料を1万石増進し、宝永3年(1706年)には仙洞御料を3千石増進している。しかし、その一方で、綱吉と幕府は東山天皇の生母で霊元が寵愛する松木宗子とその信任が厚い議奏中御門資熙を支援して親幕府派に取り込んで、霊元及び基熙の両方を牽制させようとしたことで朝廷は表は資熙が、奥は宗子とその母の東二条局(河鰭秀子)が掌握する結果となり、事態が混沌とすることになった。しかし、天皇親政を主張してきた江戸幕府の影響によって霊元に近い筈の宗子や資熙が霊元院政に取って代わる事態は、天皇や基熙から見れば親政実現の障害でしかなく、彼らはこの動きに反発して資熙の排除を幕府に要請するが、京都所司代松平信庸は宗子と資熙のおかげで朝廷運営が幕府の望ましい方向に向かっていると評価していたために全く話が噛み合わなかった(綱吉自身が生母の桂昌院や側用人の柳沢吉保を重用している手前、天皇の生母である宗子や側用人的な立ち位置にある資熙を排除するという選択肢がなかったという見方もある)。しかし、基熙の縁戚にあたる上臈御年寄右衛門佐局を介して天皇の意向が直接綱吉に伝えられたことで、元禄12年(1699年)に幕府より資熙に蟄居が命じられて事態が収拾されることになった。また、東山天皇の男子が早世が多く、霊元上皇と松木宗子が寵愛していた三宮(後の公寛入道親王、母は冷泉経子)に将来の皇位継承への期待が掛けられていたが、同じ頃に三宮の本当の父は京極宮文仁親王であるという噂が流れていた(『基熙公記』元禄13年3月18日条)。この噂を危惧した東山天皇は霊元の反対を押し切って、元禄13年(1700年)に三宮を円満院門跡にする方針を示して幕府の了承を得た。翌年、三宮の異母弟で五宮にあたる長宮(後の中御門天皇、母は櫛笥賀子)が誕生し、宝永4年(1707年)には幕府の了承を得て長宮が儲君に立てられた。結果的に小倉事件と同じように父天皇の意向で皇位継承の最有力者が出家させられて、五宮が次期天皇に立てられることになったが、大きな騒動にはならなかった。この時の一連の幕府との交渉で暗躍したのが、中御門資熙の排除をきっかけに天皇との連携を強化した近衛基熙であった。
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