朝廷執行部・幕府との対立とは? わかりやすく解説

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朝廷執行部・幕府との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:00 UTC 版)

霊元天皇」の記事における「朝廷執行部・幕府との対立」の解説

貞享4年1687年)、朝仁親王への譲位が行われることとなった霊元天皇これに伴い長年中断していた即位式と共に行われる大祭大嘗祭を行うことを強く要望した。大嘗祭再興については朝廷内にも財源準備が不足であるとした、左大臣近衛基熙はじめとする強い反対派存在した。更に神仏分離唱える垂加神道支持してその教義に基づく大嘗祭行おうとする一条冬経神仏習合唱える吉田神道支持する近衛基熙という対立構図存在していた。 幕府理想とする上皇朝廷口出しせず、諸事質素であった明正上皇の姿であり、霊元譲位後は「本院御所之格(明正上皇と同じ格)」であることが求められた。さらに霊元素行不信感持っていた幕府は「当今之御まねヲ不被候儀二仕度候(東宮霊元天皇真似をしないようにしたい)」という考えもあり、新天皇が霊元影響受けないことを望んでいた。また、幕府霊元院政開始することに反対意思示し譲位後政務関与せず関白武家伝奏議奏によって朝廷運営が行われることを求めた京都所司代土屋政直天皇機嫌損ねて譲位の手続き延引することを恐れており、綱吉大嘗祭再興には不安感持っていたものの、大嘗祭再興に関して臨時支出求めないという霊元側から申し出もあり、最終的に大嘗祭容認した。 こうして文正元年1466年以来219年ぶりの大嘗祭が行われたが、大嘗祭前後節会3日から1日変更され天皇鴨川で禊を行う御禊行幸幕府反対行われないなど、極めて簡略化されたものとなった近衛基熙御禊行幸中止神慮かなわないとして反対し、霊元の兄の尭恕法親王もこの大嘗祭朝廷幕府誰一人納得しておらず、神を欺くのである強く批判したこのため次の中御門天皇即位の際には大嘗祭は行うことはできず、再び中絶することとなる。霊元この他にも石清水八幡宮放生会賀茂祭再興行っている。 霊元太上天皇となった後、仙洞御所入って院政開始し以後仙洞様とよばれるうになる霊元院政後水尾院政と異なり朝廷機構掌握するではなく仙洞御所別個の機構確立して、そこから朝廷機構指示下すというものであり、以降江戸時代の院政慣行となる。仙洞御所では霊元意思選定され院評定合議行い霊元任じられ院伝奏幕府連絡取り扱った。また朝廷主宰者であるという意識強く持っており、東山天皇成人するまで本来天皇が行儀式である四方拝仙洞御所にて行っている。 これら霊元姿勢朝廷執行部との確執生んだ元禄元年1688年10月霊元対立していた近衛基熙正室常子内親王から霊元に対して基熙が左大臣辞退する意向であることが伝えられている。表向き理由長年左大臣務めたことで他の者が昇進できなくなっていることや譲位関連する儀式終わったことを上げている。しかし、霊元将来的には基熙が関白就任すべきであるとして慰留しながらも、基熙の本心関白昇進一条冬経先を越されたことで面目を失ったからだと指摘し、基熙が関白になれなかったのは「神慮」であると述べて却って基熙を憤慨させている(『基熙公記元禄元年10月26日条)。その一方で一条冬経からも基熙と同様の理由摂関辞退したいという意向元禄元年2月元禄2年10月霊元伝えられているが、霊元2度とも慰留意思伝え一条冬経が健康問題理由として(2度目の)辞退意向固いと知るや将来再任前提としてこれを認めることを伝えている。かくして元禄3年1693年1月、基熙が関白就任することになった元禄3年10月霊元西本願寺対し門跡法主)が参内の際には四足門透垣の外で牛車の下轅・乗轅をするように命じた霊元在位中は透垣の内で下轅・乗轅を行っていたことから、関白である近衛基熙武家伝奏千種有維柳原資廉困惑した間もなく天皇外祖母である東二条局(河秀子)の口入があり、霊元もこれに同調していることが判明する霊元はこの新規定は西本願寺だけでなく、東本願寺専修寺佛光寺などの他の浄土真宗系門跡適用する方針であることを表明した。両本願寺などに対す院宣受けた一条冬経霊元考え賛同はするが先例調べた上できちんと説明尽くすことを求め、基熙が先例改め必要がある場合でも霊元行為独断に過ぎると反対した。京都所司代内藤重頼上皇相談もなくこのような決定下したことに不満を抱いた元禄4年1691年4月に入ると、西本願寺から基熙と京都所司代松平信興内藤後任に対して門徒たちが納得しないので院宣撤回取り成し欲しいとの申し入れがあった。これを受けて4月8日に基熙は霊元会談し院宣撤回申入れ霊元一度はこれに同意をしたが、12日にはやはり撤回しない意思表明した西本願寺東本願寺協議をして上皇院宣について江戸幕府訴えることを決め松平信興江戸巻き込む前に院宣撤回し事態収めた方が良い諫言した。5月5日になって霊元撤回止むを得ないという判断に傾いたが、一度出され院宣撤回する訳にも行かず最終的に5月16日になって基熙や両伝奏提案した院宣撤回しないが、門徒たちの愁訴応えて憐愍を示す」として透垣の内での牛車の下轅・乗轅を認めることで事態の収拾図られた。結果的に霊元院宣関白以下の公家たちや京都所司代反対覆されたことになり、霊元権威は傷つくことになった。 この騒動の中で、霊元は前関白一条冬経から朝廷執行部への政務移譲迫られた。4月14日霊元はこれに対し一般的な政務移譲するが、重要事項には変わらず関与し続け方針示した。さらに院伝奏院評定宛て関白武家伝奏議奏朝廷執行部霊元天皇忠誠を誓う誓詞を出すよう要請した関白近衛基熙が「天魔所為」と憤り武家伝奏千種有維が「落涙他言語なし、あい共に天を仰ぐのみ、朝廷零落この日か」と嘆くなど、仙洞御所朝廷執行部亀裂はいよいよ深まった。この事態幕府にとっても容認できるものではなく5月23日近衛基熙邸にて関白武家伝奏議奏京都所司代禁裏附という京都における公武代表者一堂会合開き改め譲位後院政不可であり、関白中心として朝廷運営を行うべきであるとする幕府方針確認された。 この会合以降霊元表向きでは政治的な発言控えるようになるが、一方東山天皇元禄4年時点でまだ17歳であり、実際に当面の間近衛基熙朝廷運営行い並行して京都所司代禁裏付支援を受けながら親政への移行準備進めこととされた。霊元上皇表向き反対をせず、元禄5年1692年)には上皇から仙洞御所持ち出され国史記録禁裏文庫返還したいとの意向示され6月には仙洞御所にある文献目録天皇贈られるが、朝廷内部より禁裏文庫補修増築必要性指摘されたために実際返還親政開始合わせることになった元禄6年9月12日には天皇親政開始前提として議奏追加中御門資熙久我通誠清水谷実業が行われている。 ついに元禄6年1693年10月23日には、譲位後霊元政務口出ししてならないという将軍綱吉意志伝えられた(ただし、前述のように院政事実上停止しており、親政への移行作業には京都所司代なども関与している)。これを受けて11月26日には政務の完全な移譲が行われた。しかし霊元上皇裏面からの介入諦めようとははしなかった。 東山天皇近衛基熙取り組んだのは、霊元影響力排除であった。基熙は幕府連携し元禄13年1700年)までに霊元派の公家重職から排除している。また将軍綱吉積極的に朝廷支援を行うようになり、宝永2年1705年)には禁裏御料1万増進し宝永3年1706年)には仙洞御料を3千石増進している。しかし、その一方で綱吉幕府東山天皇生母霊元寵愛する松木宗子とその信任が厚い議奏中御門資熙支援して幕府派に取り込んで霊元及び基熙の両方牽制させようとしたことで朝廷は表は資熙が、奥は宗子とその母の東二条局(河秀子)が掌握する結果となり、事態混沌とすることになった。しかし、天皇親政主張してきた江戸幕府影響によって霊元に近い筈の宗子や資熙が霊元院に取って代わる事態は、天皇や基熙から見れば親政実現障害でしかなく、彼らはこの動き反発して資熙の排除幕府要請するが、京都所司代松平信庸宗子と資熙のおかげで朝廷運営幕府の望ましい方向向かっていると評価していたために全く話が噛み合わなかった(綱吉自身生母桂昌院側用人柳沢吉保重用している手前天皇生母である宗子側用人的な立ち位置にある資熙を排除するという選択肢がなかったという見方もある)。しかし、基熙の縁戚にあたる上臈御年寄右衛門佐局を介して天皇意向直接綱吉伝えられたことで、元禄12年1699年)に幕府より資熙に蟄居命じられ事態収拾されることになったまた、東山天皇男子早世多く霊元上皇松木宗子寵愛していた三宮(後の公寛入道親王、母は冷泉経子)に将来皇位継承への期待掛けられていたが、同じ頃に三宮本当の父は京極宮文仁親王であるという噂が流れていた(『基熙公記元禄13年3月18日条)。この噂を危惧した東山天皇霊元反対押し切って元禄13年1700年)に三宮円満院門跡にする方針示して幕府了承得た翌年三宮異母弟五宮にあたる長宮(後の中御門天皇、母は櫛笥賀子)が誕生し宝永4年1707年)には幕府了承得て長宮儲君立てられた。結果的に小倉事件同じように父天皇意向皇位継承最有力者が出家させられて、五宮次期天皇立てられることになったが、大きな騒動にはならなかった。この時の一連の幕府との交渉暗躍したのが、中御門資熙排除きっかけ天皇との連携強化した近衛基熙であった

※この「朝廷執行部・幕府との対立」の解説は、「霊元天皇」の解説の一部です。
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