家格としての「高家」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 12:06 UTC 版)
「高家 (江戸時代)」の記事における「家格としての「高家」」の解説
高家職に就くことのできる旗本(高家旗本)は、主に著名な守護大名・戦国大名の子孫や公家の分家など、いわゆる「名門」(原義の「高家」)の家柄で占められた。 最初期の高家職を務めた大沢基宿は、公家持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮という皇族の末裔を母とする人物である。室町幕府の成立過程から守護大名には足利氏一門が多く、吉良義弥・一色範勝・今川直房らの高家はその末裔である。他には赤松氏や土岐氏などの非一門の室町幕府下の名族・守護大名の家柄も高家となっている。高家の創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫を臣下に従えることにより、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料される。徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」という、政権の正当性および権力誇示という見方が強い。 高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、武家にしては、官位は高かった。奥高家(高家職)に就任すると、ただちに従五位下侍従に任じられる。奥高家を務める者の官位・官職は従五位下から従四位下の侍従であることが大半であるが、高家肝煎に就任した者などは最高で従四位上左近衛権少将まで昇った(制度草創期の大沢基宿は、例外として正四位下左近衛中将に昇っている)。大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である。『忠臣蔵』(赤穂事件)で知られる吉良義央も、わずか4200石取りながらも、従四位上左近衛権少将だった。赤穂藩主浅野長矩は5万3000石を領する大名だが、官位の上では従五位下諸大夫でしかなく、時の幕府の最高権力者側用人で甲府15万石を領した柳沢吉保でも従四位下左近衛権少将であり、官位の上では吉良義央の方が両者より上だった。 ただし、非役の高家(表高家)は、昇殿する必要がないため、叙任されない。
※この「家格としての「高家」」の解説は、「高家 (江戸時代)」の解説の一部です。
「家格としての「高家」」を含む「高家 (江戸時代)」の記事については、「高家 (江戸時代)」の概要を参照ください。
- 家格としての「高家」のページへのリンク