家格による大名統制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:01 UTC 版)
また、秀吉による大名編成は「家格」方式も採用された。公家において摂関家・清華家・羽林家・名家と家格制があるように、羽柴関白家・武家清華家(「清華成」)を形成し従五位侍従の国持大名からなる「公家成」やその下に置かれた豊臣譜代の諸将や小大名からなる「諸大夫成」とは格差を付けた。1588年(天正16年)初頭の武家公卿は一族の秀吉・秀長・秀次を除くと、織田信雄・足利義昭・徳川家康・宇喜多秀家。以後、権威確定にともない主家筋の織田信雄・足利義昭が失脚すると徳川家康・宇喜多秀家に加えて毛利輝元(1588年)・上杉景勝(1588年)・前田利家(1591年)・小早川隆景(1596年)が清華成(清華家並の家格を得ること、大臣まで昇進可能な家格となる)した。これらの格差が後の五大老制に通じることとなった。豊臣政権において秀吉が武家を清華成させた意義としては、「天下統一への恩賞」、「摂関家である豊臣宗家との格差明示」、「当初は家格の高かった足利将軍家・織田信雄家・徳川家康家を他家の引き上げにより埋没させるため」、「摂関家参加の宴席には武家は原則参加できなかったため、これら中世の慣習に対応」などである。
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