家格の上昇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 11:05 UTC 版)
文禄3年(1594年)8月下旬、朝鮮在陣の毛利氏諸将が加藤清正に宛てた書状の中で「隆景養子之事金吾様」とあることから、豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊を小早川家の養子に迎える事が決定したことが分かる。輝元は40歳近くになっても息子がいなかったことから、秀吉は秀俊を毛利家の養子にしようと隆景に相談したが、隆景は血縁関係のない秀俊が毛利家を継ぐことを心配し、秀吉にはすでに輝元の従弟・毛利秀元を養子にする事が内定していること告げ、秀吉の計画を放棄させた。隆景は、この件で秀吉が毛利氏を疎んじて輝元に不利があることを恐れて、自ら秀吉に請うて秀俊を養子として家を譲ったのである。 秀俊を養子に迎えることで、隆景の位も上昇し、侍従から秀俊と同じ中納言となり、清華入りし上流貴族となった。 文禄4年(1595年)、秀吉が発令した「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において、家格の上昇に伴い徳川家康や前田利家等と共に五大老の一人にも任じられることとなる。その後、秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居し、譜代の家臣団だけを率いて三原に移る。その際、秀吉は12月1日付をもって知行目録を隆景に授け、筑前に5万150石という隠居領を与えた。隆景は名島城を改修して居城とした。 慶長2年(1597年)6月12日、隆景は死去した。享年65。安芸国豊田郡沼田荘米山寺に埋葬された。 隆景の死後、毛利両川の役割は2人の甥・吉川広家と毛利秀元が担うことになる。また、三原に移った家臣団は毛利氏本家に帰参し、小早川氏は秀吉から秀秋に付けられた山口宗永ら家臣団が補佐することになる。
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