将軍候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)
幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。 17歳の頃、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まった。兄の治察は自身にまだ子がなかったので、これを望まなかったが将軍家治の命により決定される。これは、寛政2年(1790年)に一橋治済が尾張家、水戸家の当主に語ったところによると、松平定邦が溜詰への家格の上昇を目論み、田沼意次の助力により田安家の反対を押し切って定信を白河松平家の養子に迎えたという(p10,11)。 白河藩の養子になった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。定信の自伝「宇下人言」によると治察臨終の際、父徳川宗武の正室宝蓮院は御側御用取次の稲葉正明から定信が田安家を相続する話を取り付けていたが、後に田沼意次らが約束を破ったと書いている(p10,11)。 家督相続後、定信は養父の意思に従い、田沼に賄賂を贈るなど幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。ただし、実現したのは老中を解任された後であった。
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