改革失敗から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:02 UTC 版)
厳しい年貢増徴政策や運河建設による労役は、領民の憤激を生んだ。宝永5年(1708年)12月、松波勘十郎の罷免と新法の全廃を求めて多数の農民が江戸に向かい、水戸藩や支藩の守山藩の江戸屋敷に約1か月にわたり押しかけて直訴した。ここに至って綱条も、騒ぎが大きくなる前にと勘十郎を罷免、宝永6年(1709年)1月に改革を中止した。そして特に領民から悪人とまで名指しされていた勘十郎を投獄し、正徳元年(1711年)に獄死させた。しかし綱条は最後まで勘十郎の死を惜しんだという。現在、茨城町から鉾田市にかけて、紅葉運河の一部として「勘十郎堀」が残っている。 ただ、綱条自身政治に対し熱心とは言えず、能楽好きが度を越していると非難されることもあった。 宝永6年(1709年)、嫡男の吉孚が父に先立って25歳で早世した。綱条はこのとき54歳。他に成長した子女はなく、吉孚の遺児美代姫の婿とすることを意図して、2年後、甥の高松藩主・松平頼豊の長男・軽千代(宗尭)を養嗣子に迎えた。 正徳6年(1716年)、将軍・徳川家継が病に倒れると次の将軍候補の一人となったが、将軍に選ばれたのは紀州藩主・徳川吉宗であった。最晩年は『礼儀類典』を幕府に献上し、さらに『鳳山文稿』、『鳳山詠草』などの著作も多く残した。ちなみに、光圀が編纂を開始した歴史書の名を『大日本史』と名づけたのは綱条である。 享保3年(1718年)9月11日、63歳で死去。養嗣子の宗尭が跡を継いだ。
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