改革勅令とギャヴィストンの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 14:10 UTC 版)
「エドワード2世 (イングランド王)」の記事における「改革勅令とギャヴィストンの死」の解説
1310年の議会も諸侯は武装して集まり、悪しき助言者の存在、物資徴発の弊害、スコットランド喪失、1307年と1309年の議会が与えた租税が空費されたことなどを列挙してエドワード2世を批判し、政治改革を要求した。エドワード2世は屈服し、カンタベリー大司教、6人の司教、8人の伯爵なら成る改革勅令起草委員会 (Lords Ordainers) の設置を認めた。 1311年の議会の討議も踏まえて、同年秋に改革勅令(英語版)が発せられた。この改革勅令は、 ギャヴィストンの永久追放。 エドワード2世即位後に行われた王領地贈与の取り消し。 1294年以降制定の関税廃止。 王を議会の管理下に置いて王の執行権や人事権や行動の自由を制限すること。 年に1度か2度は議会を開くこと。 大憲章(マグナ・カルタ)や御料林憲章(英語版)の解釈権は議会の諸侯にあること などが盛り込まれていた。 ギャヴィストンは追放処分を受ける前にフランドルへ逃げ、その後ひそかに帰国し、1312年にウィンザーのエドワード2世と合流して追放処分取り消しを受けた。これを知って激怒した諸侯はウィンザーへ向けて進軍し、エドワード2世とギャヴィストンはスカーバラ城に籠城して三週間粘ったが、結局降伏を余儀なくされた。 エドワード2世の執り成しと懇願でギャヴィストンの生命は保証されたが、その代わりギャヴィストンは永久追放処分となることになった。ギャヴィストンは身柄をペンブルック伯に引き渡されて護送されていったが、この際に第10代ウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムや第2代ランカスター伯トマスらギャヴィストン助命に反対する諸侯が独断でギャヴィストンの身柄を強奪して私刑の斬首に処してしまった。この件にエドワード2世は憤慨し、またギャヴィストンを護送していたペンブルック伯らとギャヴィストンを殺害したランカスター伯らの関係にも亀裂が入り、諸侯の連携が崩れた。内乱の空気さえ漂ったが、皇太子エドワード出産の慶事があったため、危機は回避された。 1314年夏にはスコットランドにおけるイングランドの拠点スターリングが包囲されたのを受けて、エドワード2世自ら援軍を率いてスコットランドへ出征したが、バノックバーンの戦いでスコットランド軍に惨敗。これはエドワード2世の権威を一層低下させ、改革勅令の遵守を誓約することを余儀なくされた。またこの戦いにはペンブルック伯が従軍していたが、彼との不仲からランカスター伯は参加しなかった。そのため政府の指導権はランカスター伯が握るところとなった。 1316年2月の議会では、ランカスター伯に政権を任せられることになったが、彼は積極的な国政指導を行わず、エドワード2世とも他の諸侯とも疎遠になって孤立を深めた。
※この「改革勅令とギャヴィストンの死」の解説は、「エドワード2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「改革勅令とギャヴィストンの死」を含む「エドワード2世 (イングランド王)」の記事については、「エドワード2世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- 改革勅令とギャヴィストンの死のページへのリンク