承久の乱・伊賀氏の変とは? わかりやすく解説

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承久の乱・伊賀氏の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 18:42 UTC 版)

一条家 (中御門流)」の記事における「承久の乱・伊賀氏の変」の解説

だが、実朝死による源氏将軍断絶契機に、一条家それまで鎌倉幕府との関係を大幅に見直方向となり、代わって院近臣としての立場への傾斜強めていった。やがて承久3年1221年)に勃発した承久の乱において、能保の庶長子尊長、及び弟の信能は後鳥羽上皇挙兵計画積極的に参加し、高能の子能氏・能継兄弟もこれに加担した。ただし、一条家嫡流である高能の嫡男一条頼氏や能保の子実雅はこれに従わず、頼氏は上皇挙兵後京都脱出して鎌倉逃れ、実雅は当時滞在であった鎌倉そのままとどまった。これは頼氏が北条時房の、実雅が北条義時それぞれ女婿であったことで北条氏近く在京することに身の危険感じたからと考えられている(反対に能氏の祖父比企能員の変北条氏滅ぼされ糟屋有季であった)。承久の乱終結後尊長・信能・能氏・能継らは相次いで幕府によって粛清され、更に生き残った実雅も、貞応3年1224年)の伊賀氏の変にて将軍候補に擬されたとして失脚(後に変死)している。こうして一条家人々宮廷から急激にその人数を減らしていったが、嫡流筋の頼氏(高能の3男であるが、摂政松殿基房の娘を母とする嫡男立場にあった)は引き続き鎌倉幕府から信任され従二位左兵衛督にまで昇っていることから、この段階では宮廷内において一定の地位占めていたと考えられている。

※この「承久の乱・伊賀氏の変」の解説は、「一条家 (中御門流)」の解説の一部です。
「承久の乱・伊賀氏の変」を含む「一条家 (中御門流)」の記事については、「一条家 (中御門流)」の概要を参照ください。

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