承久の乱と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 16:27 UTC 版)
承久の乱は6月5日夜、大井戸(現在の岐阜県可児市)で始まった。 京方東山道軍の大将である大内惟信とともに朝廷から大将軍に任命された高桑大将軍は、次男である高桑次郎と高桑武士団を結成し、高桑大将軍の居城である高桑城から約2000騎を引き連れて出陣し、幕府軍と戦った。木曽川には当時、複数の浅瀬があり、京方軍はそれらの浅瀬に軍勢を引き連れ木曽川の浅瀬で幕府軍を迎え撃つ構えをとる。 『承久記』によると、高桑大将軍は、木曽川の戦いにおいて最北の「大井戸の疫」(現在の岐阜県美濃加茂市大田三井)の守備につき、馬上で指揮をとった。高桑大将軍、高桑次郎、高桑武士団は、戦国時代とは異なり、一族の姓名「高桑」を大書した織旗を自陣に押立てていた。このため、敵方である幕府軍甲州源氏の武田氏、小笠原氏に高桑殿大将軍とすぐに判明する。 小笠原氏の郎徒(郎党兵卒)の荒三郎(19歳)は木曽川の疫河である場所を探るため川に潜っていたところ、立派な鎧を身に付けた高桑大将軍を発見して矢で射抜き、高桑大将軍は戦死した。 戦死の地に近い現在の岐阜県各務原市鵜沼にある「正法寺」境内に、24体の高桑武士団の墓石があると言われている[誰によって?]。
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