挙兵後とは? わかりやすく解説

挙兵後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 06:54 UTC 版)

翟斌」の記事における「挙兵後」の解説

383年12月前秦の衛軍従事中郎であった翟斌河南挙兵し前秦豫州牧・平原公の苻暉洛陽攻めた長楽公の苻丕慕容垂苻飛龍にこれを討たせたが、慕容垂(のちの後燕皇帝)が密かに前燕復興させることを謀って翟斌丁零結んで前秦に叛いて南下し苻飛龍を殺してことごとくその衆を生き埋めにした。慕容と、前燕の故臣の子である燕郡王騰遼西の段延らは翟斌挙兵聞いて各部曲を率いてこれに帰属した。苻暉武平侯の毛当翟斌を討たせたが、丁零の衆は翟斌随従し、秦兵に大勝し毛当を斬った。翟斌遂に陵雲台戍に侵攻し万余人の甲仗を収めた384年1月慕容王騰・段延らが慕容垂盟主奉じることを勧めたので、翟斌もこれに従った慕容垂大将軍大都督燕王称して後燕建国すると、弟の慕容徳車騎大将軍范陽王、兄の慕容恪嫡男慕容征西大将軍太原王翟斌建義大将軍河南王、元夫余王の余蔚を征東将軍夫余王、昌黎鮮卑衛駒鷹揚将軍慕容建策将軍とした。同年2月慕容垂丁零烏桓の衆20率いて鄴を攻めたが、陥落できなかった。同年7月翟斌は功を恃んで驕り高ぶり、鄴城を陥落できずにいる慕容垂に対して密かに二心抱いた。これに気付いた太子慕容宝慕容農慕容紹(慕容の弟)、そして慕容徳らが、翟斌排除することを慕容垂請うたが、功績のある翟斌排除することはできない申し出却下された。やがて翟斌尚書令になることを請うたが、慕容垂断られたため、密かに苻丕通謀して丁零人たちに鄴城水攻めのための堤防決壊させた。これが発覚すると、翟斌及びその弟の翟と翟敏が慕容垂殺された。

※この「挙兵後」の解説は、「翟斌」の解説の一部です。
「挙兵後」を含む「翟斌」の記事については、「翟斌」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「挙兵後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「挙兵後」の関連用語

挙兵後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



挙兵後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの翟斌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS