頼朝挙兵後
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治承4年(1180年)の源頼朝挙兵の際には、甥足利義兼・子山名義範・孫里見義成らが早期にその麾下に帰参したのに対し、義重は一時日和見的態度を取る。この背景には、北関東での主導的地位にあり頼朝を格下に見ていたことや、新田荘が平家方の荘園であったこと、また木曾義仲とは親子2代に渡る宿敵関係でありこれを牽制する必要があった、といった要因が挙げられる。 やがて頼朝の威勢興隆を目の当たりにし慌てて鎌倉に駆けつけるが容易に頼朝の不信感を拭うことはできず、安達盛長の取り成しでようやく帰参が叶ったという。さらに、未亡人となっていた娘(祥寿姫)を頼朝の側室にと乞われるもこれを拒否し、より一層頼朝の不興を買ったと伝えられている。 甥の足利義兼が逸早く頼朝の下に駆けつけて活躍し以後代々北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつくことによって幕府内での地位を保ったのに対し、義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であり、鎌倉幕府成立のために積極的に協力したとは言いがたいものがあった。このことが足利・新田両氏の処遇の差となって表れ、後代まで尾を引いていくことになる。但し義重自身は源家の最長老であり、幕府成立時点で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として一定の敬意を受けていたようである。この頃に出家し、上西入道と称したという。 晩年は、嫡男・義兼と共に新田家の家督を継いだばかりの曾孫の政義の後見役を務めた。建仁2年(1202年)に老衰のために新田荘で没した。『新田足利両家系図』によると享年89、『尊卑分脈』では享年68とする。 『吾妻鏡』によると、建久4年(1193年)4月28日、頼朝は那須狩の帰りに式部大夫入道上西新田館にて遊覧している。没年の建仁2年(1202年)1月29日の記述に頼朝未亡人北条政子が2代将軍頼家に対して、「故仁田入道上西(義重)は源家の重鎮であったが、その死去から20日もたっていないのに蹴鞠に興じるのは然るべからず」と叱責する記述がなされている。
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