頼朝挙兵と清重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 09:26 UTC 版)
治承4年(1180年)8月、源頼朝は平氏打倒の挙兵をするが石橋山の戦いで大庭景親に敗れて安房国へ逃れた。9月3日、頼朝は小山朝政、下河辺行平そして清元・清重父子に書状を送り、特に清重に対しては「忠節の者である」として海路でも直ちに参じるよう求めた。この時は合流できなかったが、頼朝が千葉氏、上総氏の軍勢を加えて隅田川まで進軍してくると、10月3日に清元とともにこれに参じた。 豊島氏・葛西氏と同じ秩父氏一族の江戸重長は石橋山の戦いで大庭景親に味方しており、頼朝の参陣の要求にも形勢を観望してなかなか応じなかった。このため頼朝は清重に命じて重長を誘殺しようとまで図った。 結局、同じ平姓秩父氏一族の畠山重忠、河越重頼も参陣したことで、江戸重長も服そうとしたが、頼朝の怒りは収まらず重長の所領を没収して清重に与えることを決めた。ところが、清重は「所領を得ようと望むのは一族を養うためです。一族の重長の所領を賜うのは私の意志ではありません。宜しく他者に賜りますよう」と拒絶した。頼朝は激怒して清重の所領も没収すると脅したが、清重は「士は高潔を尊びます。受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」と断固として拒絶した。頼朝もこれに感じ入り、重長を許すことにした(『沙石集』より)。川合康はこの逸話を頼朝が清重に命じて重長を誘殺しようとした時の話ではないかと推測し、清重が頼朝と同じ秩父氏一族である畠山・河越・江戸各氏の間を取りなして彼らの参陣を説得したとしている。 10月6日に頼朝は鎌倉に入り、同月16日に富士川の戦いで平維盛の遠征軍を敗走せしめた。11月、頼朝は自ら兵を率いて常陸国の佐竹秀義を討った。その帰路に頼朝は清重の館に立ち寄り、清重は栄光のこととして丁重にもてなし、妻女を頼朝の御膳に侍らせた(夜伽をさせた)。頼朝は大変に満足して清重に武蔵国丸子荘(神奈川県川崎市)を与えた。養和元年(1181年)4月、清重は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)。 元暦元年(1184年)5月、源義高(源義仲の嫡男で頼朝に殺された)の遺臣の捜索に参加。同年8月、源範頼の平氏討伐の遠征に従軍。兵糧の調達に難渋して遠征軍は苦戦したが、九州に渡って平氏の背後の遮断に成功し、元暦2年(1185年)3月11日、清重は北条義時、小山朝政らとともに頼朝から特に慇懃の御書を賜り大功を賞された。同月25日、平氏は壇ノ浦の戦いで滅亡した。 文治5年(1189年)清元・清重父子は奥州藤原氏討伐に従軍(奥州合戦)。同年8月の阿津賀志山の戦いで清重は三浦義村、工藤行光ら7騎で陣を抜け出し山を登って抜け駆けの先陣を果たし、奮戦して武門の誉れと讃えられた。
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