未亡人となって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 01:58 UTC 版)
「メアリー・テイラー・ピーボディ・マン」の記事における「未亡人となって」の解説
1859年、夫の死を契機に、メアリーと家族はマサチューセッツ州に戻った。夫の伝記を執筆し、彼の著作の編纂は、彼女の悲哀を慰めるのに功を奏した。『ホーレス・マンの生涯と著作』には、メアリーへの言及はたったの一箇所しかない。 1843年5月1日、マンは再婚し、ヨーロッパの学校、特に最も期待の高かったドイツの学校を訪問するため船でヨーロッパに渡った。 10年と立たないうちに、彼女は夫を埋葬しなくてはならなかった。メアリーの長男は、24歳で亡くなった。未亡人になって、メアリーは教育に関する様々な話題について(たとえどんなに遠回しにであろうとも)さまざまな雑誌に執筆し、スペイン語の本の翻訳をし、息子のしつけもやり、フィルアントロピーの活動にも参加し、ボストンでは姉の幼稚園の仕事を手助けした。彼女のエッセイ「幼児の文化」(Culture of Infancy)は、1863年エリザベス・ピーボディの「幼稚園ガイド」と一緒に小冊子『幼児の文化と幼稚園ガイド、お遊戯のための音楽付き』として出版された。メアリーとエリザベスが手を組んでやった仕事の中には、サラ・ウィネマッカ・ホプキンスの講演活動も含まれている。この人はネイティブ・アメリカンとして、初めて英語で本を書き、著作権を持つようになった人として知られている。さらに、メアリーはホプキンスに自身の本を書くことを勧めた。これで執筆されたのが『パイユート族との生活、彼らの悪と犯罪』(1833年)である。彼女は80歳になって、最初の小説『ジョアニータ: 50年前、キューバでの実際のくらしの物語』を書き始めた。これは彼女の没後発表された。エリザベス・ピーボディは、「この物語はフィクションではあるが、基本的に登場人物や主だった重要な出来事は実際のものである。-著者に、本人が死ぬまでこの本の公開をためらわせたのはそれが理由である。.... 彼女がこの本の仕上がりにこだわりすぎて、彼女の生前に出版までこぎつけなかったのは単なる偶々そうなったというだけのことである」とコメントしている。
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