未亡人時代 そして カトリック教会への帰正
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「エリザベス・アン・シートン」の記事における「未亡人時代 そして カトリック教会への帰正」の解説
1798年から1800年にかけて擬似戦争が、アメリカ合衆国と革命後のフランスとの間で勃発した。この戦争によって、アメリカの輸送船は一連の打撃を受けた。エリザベスの夫、ウィリアム・シートンは、海上で船舶を数隻も失い、イギリスのフランス封鎖もあって破産に追いやられ、シートン一家はマンハッタン南端部にあった家を失った。 その次の夏、エリザベスと子供たちはエリザベスの父親の元に滞在した。エリザベスの父はその当時、まだニューヨーク港のスタテン島で衛生管理官を務めていた。1801年から1803年にかけて、シートン一家は8ステート・ストリートにある家で暮らした。ここは現在、ロザリオの聖母教会(1964年建造)の敷地である。エリザベスの夫、ウィリアム・シートンは、結婚生活のほぼ大半、肺結核を病んでおり、ストレスにより病をさらに悪化したため、主治医たちはウィリアムを暖かい気候のイタリアに送り、エリザベスとその長女はウィリアムに同行した。イタリアのレグホン港に到着すると同時に、一行は1ヵ月間、隔離された。これは、現地の当局がニューヨークから黄熱病を持ち込まれるかもしれないと恐れたためである。ウィリアムは1803年12月27日に逝去し、イタリアのリボルノに埋葬された。 エリザベスは、娘のアンナ・メアリーと共に、夫が晩年イタリアでのビジネス・パートナーの家族たちに受け入れられた。そしてこのイタリアの人々たちがエリザベスをカトリック教会に導くこととなる。 1805年3月14日、未亡人となったエリザベスはニューヨークへ戻るとすぐに、ニューヨークにある聖パウロカトリック教会の司祭マシュー・オブライエン師により、カトリック教会への帰正が認められた。その教会は、ニューヨークでたった一つのカトリック教会であった(反カトリック法がその数年前に撤廃された)。数年後、エリザベスは堅信の秘跡をボルチモアのジョン・キャロル司教から受けた。この司教は当時、アメリカで唯一のカトリック教会の司教だった。 エリザベスは、自らの生活と子供たちを養うため、若い女性のための学校を開いた。このように学校を開くのは、当時の社会的地位を持つ未亡人がよく行うことであったが、エリザベスがカトリック教会へ帰正したことが周囲に知れ渡ると、大部分の人々が自分の娘をエリザベスの学校から引き上げた。エリザベスは、1807年には、地元プロテスタント系の学校に通っている生徒たちを、マンハッタン島のスタイフェサント路地、聖マルコ教会の近くにあった自宅に下宿生として受け入れていた。 エリザベスが 聖スルピス会所属のカトリック司祭、ルイス・ウィリアム・ヴァレンタイン・デュプール師に会ったのは、エリザベスがカナダへ移住しようしていたその時であった。ルイス師はフランスからの移民で聖スピルス会士司祭たちのコミュニティの一員であり、セント・メアリー大学の学長だった。この時代にフランスでは、カトリックに対する恐怖政治が行われていたが、そのため聖スピルス会士たちはフランスからアメリカ合衆国に亡命し、この国で最初のカトリックによる学校を設立しようしていた。デュプール師は数年間、修道院経営の学校を構想していた。これは小さなカトリック・コミュニティをこの国に置くことが必要だということに直面したからである。
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