未亡人としての生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:19 UTC 版)
「マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ」の記事における「未亡人としての生活」の解説
マリー・アンヌは1日にして夫と父を失った。また、この直前に、ただ1人残っていた兄も死去した。アントワーヌとの間には子供もいなかったため、マリー・アンヌは36歳にして家族全員を失い1人きりとなった。さらに財産も没収され、1794年6月14日にはマリー・アンヌ自身も逮捕された。 マリー・アンヌは牢獄で自分の無実を訴える手紙を書き、これが認められて8月17日に釈放された。この時点で財産はまだ没収された状態であったため、マリー・アンヌは召使のマスロと生活を共にした。 1795年3月、世論の動きもあって、政府は徴税請負人の財産は返却するとの決定を下した。訴求官のデュパンは、自分が今までに徴税請負人に対して為したことへの責任を取らされると感じ、自己弁護のためのパンフレットを出した。マリー・アンヌはこれに対抗し、1795年7月に、デュパンを告発する文書をしたためて出版した。最終的にデュパンは逮捕された。デュパンの逮捕後、マリー・アンヌはアントワーヌの持ち物である本、家具、実験装置などの返還を求め、1796年にこれらの動産を取り戻すことができた。 財産を取り戻したマリー・アンヌは、以前のようにサロンを主催した。サロンにはピエール=シモン・ラプラスやクロード・ルイ・ベルトレーらが参加した。しかし、アントワーヌが危機に陥った時に助けることをしなかったアントワーヌ・フランソワ・ド フールクロワ(英語版)やルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー、アッサンフラッツ(英語版)らはサロンに呼ばなかった。
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