源頼朝挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:25 UTC 版)
治承4年(1180年)8月に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
※この「源頼朝挙兵」の解説は、「伊東祐親」の解説の一部です。
「源頼朝挙兵」を含む「伊東祐親」の記事については、「伊東祐親」の概要を参照ください。
源頼朝挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 01:42 UTC 版)
治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村党を率いて参じている。同じ相模・伊豆の有力な源氏方であった鎌倉党や工藤党が内部分裂したのに対して中村党は実平を中心に一致して参じたことで頼朝の信任を受けた。山木兼隆を討った頼朝が実平の拠点である土肥郷に入って三浦氏との合流を図っている(『吾妻鏡』治承4年8月20日条)。石橋山の戦いで敗北した頼朝がわずか7・8騎で逃亡した際に実平も加わっていた。『愚管抄』(巻5)によれば、頼朝が箱根山で自害を覚悟した際に実平が自害の作法・故実を伝授したとされ、『吾妻鏡』(治承4年8月24日条)では、頼朝と行動を伴にしたいと申し出る加藤景員や宇佐美祐茂に対して、実平が今は敵に見つからないようにバラバラに逃げることが大事であると説得したとされている。『源平盛衰記』で頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のことである。この後、実平の用意で真鶴から房総半島の安房国へ脱出した。 頼朝は千葉氏、上総氏らの参陣を得ると反攻に出て、関東から大庭景親ら平家勢力を駆逐することに成功する。以後、実平は富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐などに従軍する。この間、奥州から頼朝の陣を訪れた源義経を取り次ぎ(『吾妻鏡』治承4年10月21日条)、また頼朝に降った梶原景時を取り成したのも実平であった(『吾妻鏡』治承5年正月11日条)。
※この「源頼朝挙兵」の解説は、「土肥実平」の解説の一部です。
「源頼朝挙兵」を含む「土肥実平」の記事については、「土肥実平」の概要を参照ください。
源頼朝挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:24 UTC 版)
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は隅田川辺に布陣する頼朝のもとに2万騎を率いて参上した。頼朝は大軍を率いた広常の参向を喜ぶどころか、逆に遅参を咎めたので、その器量に感じて頼朝に和順したとされる。なお『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である 。 だが、野口実は『吾妻鏡』の広常に関する記述を詳細に分析した結果、広常は当初から頼朝側だったと結論付けている。頼朝挙兵以前に頼朝からの使者に対する広常の返答は早速の了承であり、ただ船の都合で8月下旬までの参向は無理としている。このことから9月19日、隅田川辺での頼朝への参向、これは広常による平家方勢力の掃討を意味しているのであり。頼朝への参向は上総ないし上総国府と考えるのが妥当である。呉座勇一も広常が初めから頼朝側であったからこそ、頼朝が何事もなく安房から上総を経由して下総に向かえたとし、広常が率いたとされる大軍も上総国内から平家側勢力を一掃したことによって動員が可能になったものとして、野口の見解を肯定している。 同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。 『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。
※この「源頼朝挙兵」の解説は、「上総広常」の解説の一部です。
「源頼朝挙兵」を含む「上総広常」の記事については、「上総広常」の概要を参照ください。
- 源頼朝挙兵のページへのリンク