源頼朝の挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:13 UTC 版)
安元元年(1175年)、伊豆に配流された源頼朝と祐親の三女(八重姫)が通じ合い、2人の間に千鶴丸が誕生する事件が起きる。親平家方であった祐親は、この事件を知るや否や千鶴丸を殺し、三女を頼朝から引き離して江間小四郎の許に嫁がせ、更には頼朝も亡き者にせんとした。これを知った祐親の次子で、頼朝の乳母・比企尼の娘婿だった祐清は頼朝を北条時政の許に落ち延びさせた。 治承4年(1180年)に頼朝が挙兵すると、祐経を初めとする狩野・工藤一党は頼朝方に馳せ参じたが、祐親と祐清は平家方に加わり、大庭景親と共同して頼朝勢を石橋山の戦いで撃破する。しかし、頼朝が勢力を回復すると祐親父子は捕らえられ、祐親は娘婿の三浦義澄に預けられる。義澄等の助命嘆願が功を発して、祐親は頼朝から赦免されるが、祐親はこれを恥じて自害した。 伊東祐清は、頼朝から嘗て己の命を助けて貰った恩義から配下になるよう薦められたが、これを拒否し、処刑されたとも、平家方に身を投じて篠原の戦いで討ち死にしたとも記録されているが定かではない。挙兵した頼朝を伊東館から逃がした事が平家方に発覚した場合の事を考えればこの時点で平家方に行く事は考え難い。また、三女の夫・江間小四郎は頼朝に殺された。 他方、祐経は早期に頼朝に味方したことから、その君寵が厚く、その反面、数多くの御家人から妬まれた。そして、祐経は、成長した祐泰の遺児である一萬・箱王兄弟改め曾我祐成・曾我時致によって父の仇として討たれるのだが、その過程は『曽我物語』に詳しく描かれている。 奥三河の東栄町には伊豆から移住した伊藤氏と日向から移住した伊東氏の記録があり、日向から入った伊東氏が伊豆から来た伊藤氏に土地を与えて因縁を払拭したという歴史が1955年発行の地域史「振草本郷」に記録されており設楽から東栄町にかけての地域一体には庵木瓜を家紋とする伊藤姓が数多く分布している。
※この「源頼朝の挙兵」の解説は、「河津氏」の解説の一部です。
「源頼朝の挙兵」を含む「河津氏」の記事については、「河津氏」の概要を参照ください。
- 源頼朝の挙兵のページへのリンク