地域史とは? わかりやすく解説

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地域史


郷土史

(地域史 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 00:11 UTC 版)

郷土史(きょうどし、英: Local history)とは、ある一地方の歴史調査研究していく歴史学や刊行物。郷土史の研究者郷土史家または郷土史研究家と呼ぶ。




「郷土史」の続きの解説一覧

地域史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:12 UTC 版)

四万十市」の記事における「地域史」の解説

幡多荘成立 現在の四万十市は、古代行政区画では土佐国西部幡多郡含まれる土佐国に、ヤマト王権任命する地方官である国造として、都佐(とさ)国造波多(はた)国造があり、波多国造幡多郡本拠地とした豪族推定されている。 10世紀初め成立した延喜式では、土佐国西部幡多郡設けられている。その郡司として、秦氏の名前が見える。 12世紀後半藤原忠通土佐国知行国主となった時から、幡多郡摂関家との関係が生じた源平の争乱後、源頼朝がいったん平氏から没収し、忠通の子九条兼実引き渡したものと考えられる。そのため、土佐国守護容易に介入できない地域であった。兼実は、1206年元久3年)、息子九条良経亡くなった時、その知行国であった越後讃岐代わりに後鳥羽上皇土佐希望し、これを九条家分国とした。翌1207年、兼実が亡くなると、孫九条道家知行国継ぎ九条家諸大夫源有長を土佐守推挙した有長土佐守在任中の1220年代に、幡多郡大半九条家荘園となり、1237年嘉禎3年)の寄進状初めて「土左幡多御庄」の名が見える。道家は、1250年幡多荘を含む荘園三男一条実経一条家の祖)に譲り渡した一条家幡多荘は、概ね中村市に当たる本荘のほか、幡多郡内の大方おおがた)荘、山田荘以南(いなん)荘、隣接する高岡郡内の久礼(くれ)別府から成っており、徐々に周囲取り込んで拡大していった。 現在の四万十市の中の具同村が、平安時代から幡多郡郡衙置かれ群の中心地であり、一条家もここに奉行所置いて々の預所呼ばれる荘官たちを束ねさせた。 南北朝時代になると細川氏土佐国守護に就き守護代派遣していたが、一条家荘園であった幡多郡には、守護支配権がほとんど及ばなかった。 土佐一条氏統治 応仁の乱始まり公家たちが相次いで京都離れる中、一条教房は、1468年応仁2年9月海路土佐下向し、幡多荘入った。これが土佐一条氏の祖である。教房は、具同代わり幡多荘中心となっていた中村邸宅構え中村館、幡多御所などと呼ばれた。教房は、以南加久見(現土佐清水市)の領主加久見氏の娘を後妻迎えるなど、地元の有力国人結びつきながら、積極的な直務支配進めていった。 1480年、教房が亡くなった時、その子一条房家4歳であったが、国人土豪層に擁立されて土佐一条氏継いだ。その孫一条房基の代には、幡多郡高岡郡支配する公家大名となったといえ、戦国時代の他の大名国人同じように、家臣寺社に対して宛行状寄進状発している。房家は、豊後水道挟んだ九州支配する大内氏二男義房(大内晴持)を養子入れ大内氏滅亡した後は、房基やその子一条兼定が、大友氏姻戚関係結んでいる。南海路を介して明や南方との対外交易に関わっていたことも窺える16世紀には、土佐中部東部長宗我部国親・元親が支配固めた1571年頃、一条氏に従っていた姫野々城津野氏久礼城の佐竹氏長宗我部氏服属すると、一条氏家臣団和平派と反長宗我部派に分裂し1573年天正元年)、和平派兼定隠居迫り一条内政擁立した兼定は、妻の実家大友宗麟頼って中村から落ち、翌1574年天正2年)に宗麟の支援受けて中村奪還図ったが、四万十川の戦い渡川の戦い)で敗れた

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「地域史」を含む「四万十市」の記事については、「四万十市」の概要を参照ください。


地域史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:54 UTC 版)

京都丹波高原国定公園」の記事における「地域史」の解説

広域区分では綾部市の上林川上流域京丹波町および南丹市由良川北岸側と源流域中丹由良川南岸中流域までが南丹京都市桂川流域が京丹と呼ばれる令制国五畿七道では、中丹南丹と京丹の桑田郡京北広河原)が山陰道丹波国その他の京丹が畿内山城国区分。但し、京丹北東部久多東山道近江国属していた。平安時代編纂された『和名類聚抄』では、桑田郡内に山国郷弓削郷といった現在の地名引き継がれる郷名がみられる。特に山国郷長岡京造営時に木材供給したことから、平安京建都の際にとしての山国荘山国庄)となり、公田としても禁裏御料であったまた、中世においては惣村形成する集落もあった。 江戸時代幕藩体制では、中丹何鹿郡綾部藩山家藩南丹の西寄り園部藩南丹の東寄りと京丹が京都所司代京都代官所轄のもと公儀御料公家領旗本領・寺社領豪商所有山林新田などが複雑に入り込み桑田郡黒田村広河原灰屋芹生)は篠山藩久多朽木藩であったこの間1645年正保2年)に京丹北部の花脊(大布施・八別所)が山城国愛宕郡編入され久多京都になったのは明治時代になってからのこと。また、明治初期には桑田郡北桑田郡へと再編された。 2019年令和元年)は天皇御代替りに伴う一世一代限り大嘗祭11月1415日行われその儀式に用いられる奉納米を西日本から選定する主基田南丹市八木町氷所新東畑が選ばれたが、八木町氷所北部日吉ダム接す国定公園域に属している。なお、長らく中断していた大嘗祭江戸時代東山天皇によって1687年貞享4年)に復興した際、最初主基田として選ばれたのが禁裏御料であった現在の右京区京北鳥居町であった右京区周山町には、2020年NHK大河ドラマ麒麟がくる』の主人公明智光秀築いた周山城跡や光秀とされる木造が伝わる慈眼寺があり、国定公園第3種特別地域包括されている。

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