郷土史
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郷土史(きょうどし、英: Local history)とは、ある一地方の歴史を調査・研究していく歴史学や刊行物。郷土史の研究者を郷土史家または郷土史研究家と呼ぶ。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k 花輪由樹 2015.
- ^ 原田信之 1995.
- ^ a b c d 小二田誠二. “郷土史とは、科学的な検証に耐えられない物も含めそこに生きる人たちのアイデンティティである”. モダンタイムス. モダンタイムス. 2024年1月25日閲覧。
- ^ “馬部 隆弘 (Takahiro Babe) - 椿井文書研究余録”. researchmap.jp. 2024年1月26日閲覧。
- ^ “「研究ごっこ」Q&A”. www.hmt.u-toyama.ac.jp. 富山大学. 2020年3月27日閲覧。
- ^ 白峰旬「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する-高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読して-」『史学論叢』第46巻、別府大学史学研究会、2016年8月、129-150頁、CRID 1050564287799247872、ISSN 0386-8923。
- ^ “オカルト歴史が「日本遺産」に!? 全国に広がる「偽史」町おこし”. 2022年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月2日閲覧。
- ^ 馬部隆弘 2020, pp. 219–223.
- ^ 馬部隆弘 2020, pp. 224–225.
- ^ 自治体史の著作権 誰のもの?/世田谷区「デジタル化など想定」譲渡要求 執筆者「歴史書き換え可能に」契約拒否『東京新聞』朝刊2023年3月8日(社会面)2023年4月30日閲覧
地域史
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幡多荘の成立 現在の四万十市は、古代の行政区画では土佐国西部の幡多郡に含まれる。土佐国に、ヤマト王権が任命する地方官である国造として、都佐(とさ)国造と波多(はた)国造があり、波多国造は幡多郡を本拠地とした豪族と推定されている。 10世紀初めに成立した延喜式では、土佐国西部に幡多郡が設けられている。その郡司として、秦氏の名前が見える。 12世紀後半、藤原忠通が土佐国の知行国主となった時から、幡多郡と摂関家との関係が生じた。源平の争乱後、源頼朝がいったん平氏から没収し、忠通の子九条兼実に引き渡したものと考えられる。そのため、土佐国守護も容易に介入できない地域であった。兼実は、1206年(元久3年)、息子の九条良経が亡くなった時、その知行国であった越後・讃岐の代わりに後鳥羽上皇に土佐を希望し、これを九条家分国とした。翌1207年、兼実が亡くなると、孫九条道家が知行国を継ぎ、九条家諸大夫の源有長を土佐守に推挙した。有長の土佐守在任中の1220年代に、幡多郡の大半が九条家の荘園となり、1237年(嘉禎3年)の寄進状に初めて「土左国幡多御庄」の名が見える。道家は、1250年、幡多荘を含む荘園を三男一条実経(一条家の祖)に譲り渡した。一条家の幡多荘は、概ね旧中村市に当たる本荘のほか、幡多郡内の大方(おおがた)荘、山田荘、以南(いなん)荘、隣接する高岡郡内の久礼(くれ)別府から成っており、徐々に周囲を取り込んで拡大していった。 現在の四万十市の中の具同村が、平安時代から幡多郡郡衙が置かれた群の中心地であり、一条家もここに奉行所を置いて、村々の預所と呼ばれる荘官たちを束ねさせた。 南北朝時代になると細川氏が土佐国守護に就き、守護代を派遣していたが、一条家の荘園であった幡多郡には、守護の支配権がほとんど及ばなかった。 土佐一条氏の統治 応仁の乱が始まり、公家たちが相次いで京都を離れる中、一条教房は、1468年(応仁2年)9月、海路土佐に下向し、幡多荘に入った。これが土佐一条氏の祖である。教房は、具同に代わり幡多荘の中心となっていた中村に邸宅を構え、中村館、幡多御所などと呼ばれた。教房は、以南村加久見(現土佐清水市)の領主加久見氏の娘を後妻に迎えるなど、地元の有力国人と結びつきながら、積極的な直務支配を進めていった。 1480年、教房が亡くなった時、その子一条房家は4歳であったが、国人・土豪層に擁立されて土佐一条氏を継いだ。その孫一条房基の代には、幡多郡・高岡郡を支配する公家大名となったといえ、戦国時代の他の大名・国人と同じように、家臣や寺社に対して宛行状や寄進状を発している。房家は、豊後水道を挟んだ九州を支配する大内氏に二男義房(大内晴持)を養子に入れ、大内氏が滅亡した後は、房基やその子一条兼定が、大友氏と姻戚関係を結んでいる。南海路を介して明や南方との対外交易に関わっていたことも窺える。 16世紀には、土佐中部・東部で長宗我部国親・元親が支配を固めた。1571年頃、一条氏に従っていた姫野々城の津野氏と久礼城の佐竹氏が長宗我部氏に服属すると、一条氏の家臣団は和平派と反長宗我部派に分裂し、1573年(天正元年)、和平派が兼定に隠居を迫り一条内政を擁立した。兼定は、妻の実家大友宗麟を頼って中村から落ち、翌1574年(天正2年)に宗麟の支援を受けて中村の奪還を図ったが、四万十川の戦い(渡川の戦い)で敗れた。
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地域史
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「京都丹波高原国定公園」の記事における「地域史」の解説
広域区分では綾部市の上林川上流域と京丹波町および南丹市の由良川北岸側と源流域が中丹、由良川南岸と中流域までが南丹、京都市・桂川流域が京丹と呼ばれる。 令制国の五畿七道では、中丹・南丹と京丹の桑田郡(京北・広河原)が山陰道の丹波国、その他の京丹が畿内の山城国に区分。但し、京丹北東部の久多は東山道の近江国に属していた。平安時代に編纂された『和名類聚抄』では、桑田郡内に山国郷や弓削郷といった現在の地名に引き継がれる郷名がみられる。特に山国郷は長岡京造営時に木材を供給したことから、平安京建都の際に杣としての山国荘(山国庄)となり、公田としても禁裏御料であった。また、中世においては惣村を形成する集落もあった。 江戸時代の幕藩体制では、中丹の何鹿郡が綾部藩・山家藩、南丹の西寄りが園部藩、南丹の東寄りと京丹が京都所司代(京都代官)所轄のもと公儀御料・公家領・旗本領・寺社領・豪商所有の山林・新田などが複雑に入り込み、桑田郡黒田村(広河原・灰屋・芹生)は篠山藩、久多は朽木藩領であった。この間、1645年(正保2年)に京丹北部の花脊村(大布施・八桝・別所)が山城国愛宕郡に編入され、久多が京都になったのは明治時代になってからのこと。また、明治初期には桑田郡が北桑田郡へと再編された。 2019年(令和元年)は天皇の御代替りに伴う一世一代限りの大嘗祭が11月14・15日に行われ、その儀式に用いられる奉納米を西日本から選定する主基田に南丹市八木町氷所の新東畑が選ばれたが、八木町氷所の北部は日吉ダムに接する国定公園域に属している。なお、長らく中断していた大嘗祭が江戸時代に東山天皇によって1687年(貞享4年)に復興した際、最初の主基田として選ばれたのが禁裏御料であった現在の右京区京北鳥居町であった。 右京区の周山町には、2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀が築いた周山城跡や光秀とされる木造が伝わる慈眼寺があり、国定公園の第3種特別地域に包括されている。
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