郷土史
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郷土史(きょうどし、英: Local history)とは、ある一地方の歴史を調査・研究していく歴史学や刊行物。郷土史の研究者を郷土史家または郷土史研究家と呼ぶ。
日本語の「郷土」の語自体は、中国の古典『列子』『晋書』に淵源をもつ漢語である[1]。
欧州の郷土史学
教育学者であるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチは、目的論的立場と方法論的立場の2つの方向性から郷土に関して論じた[1]。このうち目的論的立場を継承したのがエドゥアルト・シュプランガーであり、多義的であった郷土概念に教育学的意義を与えたといわれている[1]。
第一次世界大戦に敗れた後のドイツ(ヴァイマル共和政)では国家復興の気力の養成として郷土科(ハイマートクンデ、Heimatkunde)が設けられた[1]。郷土科はヴァイマル期初期に設置された基礎学校の科目の一つである[1][2]。しかし、1960年代後半から1970年代初頭の教育改革論議において、それまでの郷土科教育は非現代的な教育内容、不合理な郷土概念像、自然科学との貧弱な繋りなどが批判を受けた[1]。
日本の郷土史学
日本の学校教育では1881年(明治14年)の小学校教則要綱地理科で初めて「郷土」の語が使用された[1]。さらに大正時代には郷土科が設置されたが、本格的な郷土教育は1929年(昭和4年)に始まった[1]。当時の日本は昭和恐慌の直後で、ドイツの郷土科を参考に農村の自立更生を目的とした郷土教育が強調された[1]。
太平洋戦争後、排他的な愛国教育との結びつきに対する反省から、郷土史は社会科という教科の中で組み込まれた[3]。昭和40年代になると高度経済成長とともに客観的な知識の習得が推奨されるようになり、小・中学校社会科『学習指導要領』でも「郷土」が曖昧な概念として避けられ「地域」に置き換えられるようになった[1]。このような動きのほか「郷土」は流動的で曖昧な概念で避けるべきという郷土回避論もみられた[1]。しかし、郷土を出発点として、様々な教科に発展させようと試みる「郷土教育」は残り続けている[3]。
現在、全国各地に「○×郷土史研究会」「○×地方史研究会」「○×地域史研究会」と名乗る研究団体が多数存在するが、名称の違いはその会が成立した時期によることが多く、研究内容、目的、手法が違うということはあまりない。また、それらの会の多くは、地方大学の歴史学者が主体となり、その教え子の地元社会科教員、学生、地方公共団体の社会教育担当職員、地方博物館学芸員などが構成員となっていることが多い。また、これらの研究者や研究会が自治体史、小学校の社会科で使用される地域副読本などの編纂、執筆を行っていることが多い。
問題点
研究成果の信憑性
在野の郷土史家は、研究上のルール[注 1]を理解していなかったり、学術研究に必要な能力[注 2]を欠いていたりする者が多く、その研究成果が疑問視される場合も少なくない。
馬部隆弘は在野の郷土史家からのTweetを分析し、「議論に根拠がない」「史料の一部分しか読めていない」「批判と誹謗中傷を理解していない」「歴史研究でありながら、くずし字の読解能力がない」といった問題点を抽出した[4]。
富山大学の大野圭介は、日本古代の郷土史研究を例に取り、信憑性のない研究の特徴として「著者が雑誌に発表した論文がない」「著者がその分野について専門的に学んだ経験がない」「やたらセンセーショナルな文句が多い」「論調が攻撃的である」「引用文献がない」といった事例を挙げ、「そのような信用できない"研究成果"は単なる「研究ごっこ」に過ぎない」と批判し、「(未熟なアマチュアは)史料を読むための『技術』を習得しないまま、いきなり大それたことをしようとする」「大半のアマチュアは『プロが積んだ努力を軽蔑し、自分勝手なルールを振りかざす』から(プロの学者から)無視される」と述べている[5]。
白峰旬は、ある郷土史家の自費出版物を例に取り、「史料の原文を誤読している箇所や、史料の内容を現代語訳して解説を加える際に恣意的な拡大解釈をした箇所があり、見解として成立しない点が多くあること」「特に新説を発表する際は、どこまでが先行研究で指摘されていることで、どこからが自身のオリジナルの考え(新説)なのかを線引きして提示する必要があるが、それが出来ていないこと」などの問題点を指摘している[6]。
学術的な裏付けがない郷土史研究が「ロマンがある」などの理由から大々的に取り上げられ、地域の宣伝や町おこしのために利用されている事例も確認されている[7][8]。馬部隆弘は、自身の体験談として、かつて大阪府枚方市が発行した小学校副読本の内容に偽史が含まれると指摘したところ、編集担当者に「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」と返答されたと述べた[9]。
一方で、小二田誠二は、郷土史は「科学的な検証に耐えられないものも含めて、そこに生きる人たちのアイデンティティの表出である」と定義し[3]、「史実の検証は大事だけれど、そこに「正しい学問」の介入できない領域が存在すること」を認めておくことが重要と述べている[3]。
自治体史における著作権
地元の歴史を、地方自治体やその教育委員会が自治体史として刊行することも多く、市町村合併や研究の進展、現代までの時代経過を反映させるため数十年を経て改定されることもある。自治体が執筆者に著作権の譲渡を求めて反対されたり、古い自治体史では著作権の所在が不明になっていたりする問題が起きている[10]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k 花輪由樹 2015.
- ^ 原田信之 1995.
- ^ a b c d 小二田誠二. “郷土史とは、科学的な検証に耐えられない物も含めそこに生きる人たちのアイデンティティである”. モダンタイムス. モダンタイムス. 2024年1月25日閲覧。
- ^ “馬部 隆弘 (Takahiro Babe) - 椿井文書研究余録”. researchmap.jp. 2024年1月26日閲覧。
- ^ “「研究ごっこ」Q&A”. www.hmt.u-toyama.ac.jp. 富山大学. 2020年3月27日閲覧。
- ^ 白峰旬「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する-高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読して-」『史学論叢』第46巻、別府大学史学研究会、2016年8月、129-150頁、CRID 1050564287799247872、 ISSN 0386-8923。
- ^ “オカルト歴史が「日本遺産」に!? 全国に広がる「偽史」町おこし”. 2022年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月2日閲覧。
- ^ 馬部隆弘 2020, pp. 219–223.
- ^ 馬部隆弘 2020, pp. 224–225.
- ^ 自治体史の著作権 誰のもの?/世田谷区「デジタル化など想定」譲渡要求 執筆者「歴史書き換え可能に」契約拒否『東京新聞』朝刊2023年3月8日(社会面)2023年4月30日閲覧
参考文献
- 原田信之「ドイツの初等学校における郷土科から事実教授への教科の批判的改編について」『日本教育学会大會研究発表要項』第54巻、1995年、200-201頁。
- 花輪由樹「住まいの教育における「名づける郷土」と「名づけられた郷土」の共存に関する考察」『日本建築学会計画系論文集』第80巻第712号、2015年、1445-1451頁。
- 馬部隆弘『椿井文書:日本最大級の偽文書』中央公論新社〈中公新書〉、2020年3月。 ISBN 978-4-12-102584-5。
関連項目
地域史
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幡多荘の成立 現在の四万十市は、古代の行政区画では土佐国西部の幡多郡に含まれる。土佐国に、ヤマト王権が任命する地方官である国造として、都佐(とさ)国造と波多(はた)国造があり、波多国造は幡多郡を本拠地とした豪族と推定されている。 10世紀初めに成立した延喜式では、土佐国西部に幡多郡が設けられている。その郡司として、秦氏の名前が見える。 12世紀後半、藤原忠通が土佐国の知行国主となった時から、幡多郡と摂関家との関係が生じた。源平の争乱後、源頼朝がいったん平氏から没収し、忠通の子九条兼実に引き渡したものと考えられる。そのため、土佐国守護も容易に介入できない地域であった。兼実は、1206年(元久3年)、息子の九条良経が亡くなった時、その知行国であった越後・讃岐の代わりに後鳥羽上皇に土佐を希望し、これを九条家分国とした。翌1207年、兼実が亡くなると、孫九条道家が知行国を継ぎ、九条家諸大夫の源有長を土佐守に推挙した。有長の土佐守在任中の1220年代に、幡多郡の大半が九条家の荘園となり、1237年(嘉禎3年)の寄進状に初めて「土左国幡多御庄」の名が見える。道家は、1250年、幡多荘を含む荘園を三男一条実経(一条家の祖)に譲り渡した。一条家の幡多荘は、概ね旧中村市に当たる本荘のほか、幡多郡内の大方(おおがた)荘、山田荘、以南(いなん)荘、隣接する高岡郡内の久礼(くれ)別府から成っており、徐々に周囲を取り込んで拡大していった。 現在の四万十市の中の具同村が、平安時代から幡多郡郡衙が置かれた群の中心地であり、一条家もここに奉行所を置いて、村々の預所と呼ばれる荘官たちを束ねさせた。 南北朝時代になると細川氏が土佐国守護に就き、守護代を派遣していたが、一条家の荘園であった幡多郡には、守護の支配権がほとんど及ばなかった。 土佐一条氏の統治 応仁の乱が始まり、公家たちが相次いで京都を離れる中、一条教房は、1468年(応仁2年)9月、海路土佐に下向し、幡多荘に入った。これが土佐一条氏の祖である。教房は、具同に代わり幡多荘の中心となっていた中村に邸宅を構え、中村館、幡多御所などと呼ばれた。教房は、以南村加久見(現土佐清水市)の領主加久見氏の娘を後妻に迎えるなど、地元の有力国人と結びつきながら、積極的な直務支配を進めていった。 1480年、教房が亡くなった時、その子一条房家は4歳であったが、国人・土豪層に擁立されて土佐一条氏を継いだ。その孫一条房基の代には、幡多郡・高岡郡を支配する公家大名となったといえ、戦国時代の他の大名・国人と同じように、家臣や寺社に対して宛行状や寄進状を発している。房家は、豊後水道を挟んだ九州を支配する大内氏に二男義房(大内晴持)を養子に入れ、大内氏が滅亡した後は、房基やその子一条兼定が、大友氏と姻戚関係を結んでいる。南海路を介して明や南方との対外交易に関わっていたことも窺える。 16世紀には、土佐中部・東部で長宗我部国親・元親が支配を固めた。1571年頃、一条氏に従っていた姫野々城の津野氏と久礼城の佐竹氏が長宗我部氏に服属すると、一条氏の家臣団は和平派と反長宗我部派に分裂し、1573年(天正元年)、和平派が兼定に隠居を迫り一条内政を擁立した。兼定は、妻の実家大友宗麟を頼って中村から落ち、翌1574年(天正2年)に宗麟の支援を受けて中村の奪還を図ったが、四万十川の戦い(渡川の戦い)で敗れた。
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