郡衙
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郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所である。国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)とも表記され、考古学では郡衙、史料上(歴史学)では郡家と表記される傾向がある[1]。
注釈
- ^ 水戸藩の学者中山信名は、『新編常陸国誌』で礎石・瓦多い所が昔の郡庁があったところであると述べている。
出典
- ^ 岡本厚『岩波講座 日本歴史 第2巻』岩波書店 p185
- ^ a b 阿久津久「新治郡衙跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 91-92ページ
- ^ 糸賀茂男「常総のまつりごと 文化のあけぼのから兵の世へ」 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社 1997年6月 33-37ページ
- ^ 八木勝行「志太郡衙跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 95-97ページ
- ^ 堀江門也「嶋上郡衙跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 98-99ページ
郡衙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:21 UTC 版)
岡遺跡 (栗東市岡、位置)大規模な建物跡や多数の出土品から栗太郡衙跡に比定される。南北300m、東西500m以上に広がる。
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郡衙
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石川西岸において、官衙的な要素をもつ集落遺跡が2ヶ所で報告されている。 中野遺跡では、一辺1メートルを超える方形の柱穴と銙帯の石製蛇尾が発見されている。中野遺跡の500メートル南方に位置する畑ヶ田遺跡では、一辺0.8~1メートルの柱穴からなる複数棟の掘立柱建物、須恵器陶硯、奈良時代の銭貨を納めた土師器甕、銙帯の石製丸鞆が発見されている。 2000年代まで、調査が先行していた中野遺跡が石川郡衙と考えられてきた。しかし、近年に畑ヶ田遺跡の調査が大幅に進展し、官衙的な遺物が相次いで発見されたことにより、郡衙の所在地について再考が求められている。
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郡衙
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英多郡家 英多(あいだ)郡家は豊国原盆地ないし江見盆地(旧作東町川北・藤生)が想定され、特に奈良平安時代の閻武廃寺跡が他の四廃寺へ通ずる交通上の中心地に位置していることや、"郡"の墨書のあるかわらけ出土品などから後者の可能性が高いとされる。美作市(旧・英田郡作東町)の高本遺跡である。 勝田郡家 勝田郡家は勝田盆地北西部の大字平字尾堂293番地の畑のなかで「郡」刻印のある須恵器が発見され、一体(平遺跡)の発掘調査が行われて奈良~平安時代の遺跡や遺物が発見されており、滝川沿いに南隣する川西でも建物跡が発掘により見つかった。これらによりこの場所(勝田郡勝央町の勝間田遺跡)にあったと推定される。 苫田郡家 苫田郡は苫東郡・苫西郡にもっとも早い時期に分割されており、苫田郡家、また分割後の両者とも明確な位置はわからない。『日本地理志料』は「即郡家所在、郡名因起」と郡家の位置によって郡名も決まったという。苫東郡家は津山市大字北山「椿高下」と"コウゲ"地名と椿高下廃寺跡が重なる場所が可能性が高いとされ、苫西郡は建郡の経緯から国府付近の田中郷辺りと推察される。 久米郡家 久米郡家は久米川の砂岩段丘上(津山市(旧:久米郡久米町)の宮尾遺跡)にあり、四時期の遺構が検出されている。第一期の遺構は遺跡中央部の品字形はいちの建物郡とその東方に総柱の倉庫、西方の南北棟の建物である。 大庭郡家 白猪屯倉がそのまま郡家になったとの考えは、現在白猪屯倉碑の建てられている真庭市五反の大庭廃寺跡出土遺跡は白鳳期から平安時代のもので、大庭臣一族の氏寺であったと推定されることにより否定され、廃寺の西隣りで現在の久世中学校から薬王寺付近に想定されている。 真嶋郡家 『落合町史』で郡家の郡長が住んだと見られる「長者屋敷」と周辺の関連地名が検証され、天津神社の創立が和銅3年(710年)であることや蔵通り・仰天などの地名から、大字平島の北隣高屋集落の立地する段丘上に想定されている。
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郡衙
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詳細は「那須官衙遺跡」を参照 8~10世紀の那須郡の郡衙跡は、那珂川町小川の梅曽にある那須官衙遺跡(なすかんがいせき)(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度46分52秒 東経140度06分35秒 / 北緯36.78113347度 東経140.10971512度 / 36.78113347; 140.10971512 (那須官衙遺跡))であると考えられている。 この遺跡は那珂川と箒川の合流地点の近くの、箒川の形成した段丘上に位置する。昭和の初期より古瓦が散布することから寺院跡だと考えられ梅曽廃寺と呼ばれていたが、発掘により郡衙跡であることが分かった。1976年(昭和51年)に国の史跡に指定された。郡衙は南北200m、東西400~600mほどの範囲にあり、その中を溝で西・中央・東さらに南東の4ブロックに分けている。西ブロックは幅4m、深さ1mの大溝によって囲われた1辺約200mの不正方形で、倉庫と考えられる総柱式の掘立建物が多数見つかっていることから倉院と考えられている。中央・東ブロックは宅地になっている。中央ブロックからは礎石立ちの倉庫と考えられる建物が2棟検出されている。東ブロックは実務を行う場所(事務官衙)であったと推定される。またこれらの南方には館や厨家があったと思われるが、このうちの館に関連する施設は南東ブロックにあったと考えられる。所有者(管理者)は那珂川町 他である。
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郡衙
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久慈郡の郡衙跡の場所についてはいくつかの説がある。のちの水府村(後述、現在の常陸太田市の一部)付近が郡家であったとする説があるが、最も有力な説は郡衙は久米郷にあったとして現在の常陸太田市大里町から同市薬谷町にかけて存在する長者屋敷遺跡(ちょうじゃやしきいせき、リンクは「遺跡ウォーカー」内、北緯36度32分16秒 東経140度28分43秒 / 北緯36.537861度 東経140.478611度 / 36.537861; 140.478611 (長者屋敷遺跡))を郡衙跡とするものである。この遺跡には寺院(古代久慈郡の郡寺久(慈)寺の跡。#郡寺参照。)や集落が含まれており、駅家か久慈郡衙の跡であるとされている。この遺跡の調査報告書は長者屋敷遺跡からダウンロードできる。また後述するように久慈郡には郡と同じ名を持つ村である久慈村(現在の日立市久慈町付近)があったが、郡衙跡とはされていない。
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