郡設立初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/13 07:30 UTC 版)
「デソト郡 (ミシシッピ州)」の記事における「郡設立初期」の解説
インディアン強制移住が行われた後の1836年2月9日、デソト郡がヨーロッパ系アメリカ人によって組織化され、郡域は北のテネシー州境から南のテイト郡まで広がっていた。西はミシシッピ川とトゥニカ郡、東はマーシャル郡までが含まれた。測量の誤りによってテネシー州境が現在のテネシー州シェルビー郡にあるウィンチェスター道路になっていた。1838年に再測量され、現在の州境に移された。郡内で発見されたインディアンの加工品によって、前史時代ウッドランド文化やミシシッピ文化のものに結びつけられている。 エルナンド・デ・ソトが北ミシシッピを探検し、現在のデソト郡を通過したと考えられるときに、ミシシッピ文化の人々に遭遇した。学者の中にはデ・ソトが現在のコーモラント湖の西でミシシッピ川を発見し、そこで筏を造って、アーカンソー州クロウリーズリッジに渡ったと考える者がいる。アメリカ合衆国国立公園局は、メンフィス市のチカソー崖からミシシッピ州コアホマ郡までを、デ・ソトの通った「デ・ソト・コリダー」だと宣言した。 デ・ソトの時代から200年経って、疫病に見舞われたミシシッピ文化は消滅した。デ・ソトが訪れた「チカサ」というインディアンの集落は、チカソー族の先祖の本拠だった可能性がある。ヨーロッパ系アメリカ人が開拓者としてこの地域に到着し始めたときには、チカソー族が住んでいた。幾つかの集落が互いに接近してあった「ロングタウン」は現在のポントトク近くにあった。チカソー族は西テネシーと北ミシシッピの大半をその猟場として主張していた。1816年9月に始まったアメリカ合衆国政府とチカソー族の間での交渉は、1832年10月のポントトク条約の締結で決着した。この16年間で合衆国政府の役人は、ヨーロッパ系アメリカ人の入植を可能とするために、チカソー族に譲歩を迫り続けた。 1830年、アメリカ合衆国議会はインディアン移住法を成立させ、必要に応じてアメリカ合衆国南東部におけるインディアンの領有権を消滅させ、強制的に移住させることを承認した。1832年から1836年、連邦政府の測量士がチカソー族の領土6,442,000エーカー (26,070 km2) を地図化し、それを郡区、地域、地区に分けた。ミシシッピ州議会はその領土からデソト、トゥニカ、マーシャル、テイト各郡など10郡を設立した。 先の条約によって、インディアン各世帯には640エーカー (2.6 km2) の土地が割り当てられていた。部族員数の少ないチカソー族にはこの計算で総面積2,422,400エーカー (9,803 km2) が割り振られた。連邦政府は残り400万エーカーを公売に付した。インディアンはその土地1エーカーに対して少なくとも1.25ドルを受け取った。連邦政府は土地を1エーカー当たり75セント未満で販売した。
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