郡評論争に決着を付けた木簡とは? わかりやすく解説

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郡評論争に決着を付けた木簡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:30 UTC 版)

藤原京」の記事における「郡評論争に決着を付けた木簡」の解説

郡評論争」とは、大化の改新の詔記述中に政治改革方針中に地方を「国」、「郡」、「里」を単位として組織する制度施行含まれており、大化年間に郡の制度ができたことになっている。この「郡」に対して疑問を呈する説が出されていた。この「郡評論争」に決着をつけたのが、藤原宮跡から発見され木簡である。1967年藤原宮跡から発見され木簡には、「己亥十月捄国阿波里」とあり、「己亥年」は文武天皇3年699年)、「上捄国阿波評」は、上総国安房郡(後の安房国安房郡)ことと考えられることから、7世紀末には、「郡」ではなく、「評」であったことを明らかにした。一方701年大宝元年)を境に、「評」は発見されなくなり、「郡」のみとなる。このことから、改新の詔によってではなく大宝律令施行後にその規定に従って、「評」が「郡」に変更されということ立証された。

※この「郡評論争に決着を付けた木簡」の解説は、「藤原京」の解説の一部です。
「郡評論争に決着を付けた木簡」を含む「藤原京」の記事については、「藤原京」の概要を参照ください。

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