源頼賢とは? わかりやすく解説

源頼賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 02:56 UTC 版)

 
源頼賢
時代 平安時代後期
生誕 不詳
死没 保元元年7月30日1156年8月17日
官位 左衛門尉
氏族 河内源氏義親
父母 父:源為義、母:源基実の娘
兄弟 義朝義賢義憲頼賢頼仲為宗為成為朝為仲鳥居禅尼行家維義?、頼定?、正親?、仙覚、乙若、亀若、鶴若、天王、美濃局、佐々木秀義室、中村光隆室ら
義久
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源 頼賢(みなもと の よりかた)は、平安時代後期の武将河内源氏源為義の四男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏の源資遠(資道)の娘とも。同母弟に源頼仲源為宗がいる。左衛門尉

略歴

次兄・義賢と仲が良く、父子の盟約を交わしたと言われる。河内源氏嫡流は為義の後に義賢となっていたが、義賢は頼賢を嫡男として扱った。

久寿2年(1155年)、義賢が甥・義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯する(『台記』)。これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。

保元の乱では為義に従い、崇徳上皇藤原頼長方として活躍。義朝軍を相手に奮闘する様が『保元物語』に活写されている。崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山京都市北区)において斬首された。

子の淡路冠者源義久は、1183年に従兄弟の源義嗣と共に淡路国平教経と戦うが、義久は捕虜となった(六ヶ度合戦)[1]

脚注

  1. ^ 菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)の著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― 」(角川選書、2005年)による。

関連作品


源頼賢(みなもとのよりかた)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:08 UTC 版)

屍姫」の記事における「源頼賢(みなもとのよりかた)」の解説

王に仕える屍の一人京都弁を喋る。真世を襲うが父と同じ運命辿った

※この「源頼賢(みなもとのよりかた)」の解説は、「屍姫」の解説の一部です。
「源頼賢(みなもとのよりかた)」を含む「屍姫」の記事については、「屍姫」の概要を参照ください。

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