六ヶ度合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:24 UTC 版)
寿永2年(1183年)、源氏同士の抗争の間に平家は摂津国福原まで再進出したが、西国各地では平家に叛く動きが起きていた。平家の足もとの四国でも阿波国、讃岐国の在庁官人が源氏に通じ、備前国下津井にいた教盛、通盛、教経父子の陣へ兵船10余艘で攻めかかった。教経は「契りをたがえるとは許せん、一人残らず討ち取れ」と小舟10艘を率いて出撃して打ち破った。 四国の者たちは淡路島へ逃れ、この地の源氏である源義嗣(源頼仲の子)、義久(源頼賢の子)を大将に城を構えて対抗しようとしたが、平家は教経らがこれを攻め、義嗣を討ち取り、義久を生け捕り、叛いた130余人を斬首した。 伊予国の河野通信が源氏に寝返ったとの噂があり、平家は通盛・教経兄弟にこれを討たせようとしたが、通信は安芸国の沼田次郎と合流して沼田城に立て篭もった。教経らは屋島を発して沼田城を攻め、沼田次郎は降参した。河野通信は伊予へ逃れた。 淡路国の住人安摩忠景が叛き大船2艘に兵糧と武具を積んで京へ向かったので、教経は小舟10艘で追撃して撃破し、忠景は和泉国へ逃げ延びた。 紀伊国の住人園辺忠康が安摩忠景に合流して助けたが、教経はこれも打ち破り、200余人を斬り、忠康と忠景は京へ逃亡した。 河野通信が豊後国住人臼杵惟隆・緒方惟義兄弟と合流して2000余人で備前国へ渡り今木城に籠城した。教経は2000余騎でこれを包囲し、更に福原から援兵数千騎を得て攻め落とし、臼杵、緒方、河野は逃亡した。 これら一連の戦いを合わせて「六ヶ度合戦」という。このように、教経は退勢の平家を支えるべく転戦した。
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