源義広 (志田三郎先生)
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源 義広(みなもと の よしひろ/志田 義広 しだ よしひろ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代・源為義の三男。志田三郎先生(しだ さぶろう せんじょう)。またの名を義範、義憲(よしのり)とも。
- ^ 東寺文書(建治二年(1126年)4月)
- ^ なお、菱沼一憲は義広が常陸南部から鎌倉を攻めるのに小山を攻めるのは方角的に不自然で、鎌倉攻撃の計画は小山氏側の主張を『吾妻鏡』に載せたに過ぎず、実際は両氏間の勢力争いで、かつ頼朝の関与もなかった可能性があるとする(菱沼は朝政が擁したのは源範頼であったとする)。また野木宮の戦いは『吾妻鏡』では養和元年(1181年)のことで、石井進の見直しで寿永2年が通説になっているが、多くの矛盾を抱えるため、義広の蜂起を養和元年とするのが最も単純であろうとも菱沼は述べている(菱沼一憲「総論 章立てと先行研究・人物史」(所収:菱沼 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻 源範頼』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-151-6))。
- ^ 『比志島系図』より。ただし志駄氏は木曾氏同様に後世の仮冒の可能性が高いといわれる。
- 1 源義広 (志田三郎先生)とは
- 2 源義広 (志田三郎先生)の概要
- 3 参考文献
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