みうら‐よしあき【三浦義明】
三浦義明
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三浦 義明(みうら よしあき)は、平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介・三浦義継の子。子に杉本義宗、三浦義澄などがいる。
注釈
出典
- ^ 延慶本平家物語 ひらがな(一部漢字)版[注釈 1]
- ^ 貫達人『畠山重忠』吉川弘文館〈人物叢書〉、1987年。
- ^ 清水亮「在家領主としての東国豪族的武士団」『地方史研究』第348号、地方史研究協議会、2010年。/所収:清水亮 編『畠山重忠』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻〉、2012年。ISBN 978-4-86403-066-3。
- ^ “常設展示品キャプション集”. 神奈川県立歴史博物館 (2016年5月). 2022年12月4日閲覧。
- ^ 「上野輪王寺宮執当職大覚王院戊辰日記」大久保利謙 編輯『江戸』第6巻、教文舎、1981年。
- ^ 藤井徳行 著「明治元年・所謂「東北朝廷」成立に関する一考察」、手塚豊 編『近代日本史の新研究』 第1巻、北樹出版、1981年。
- ^ 三浦大介腹切の松鎌倉タイム
三浦義明(義明流)
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義継の嫡男・三浦義明(1092年-1180年)は義澄とともに1156年の保元の乱・1160年の平治の乱で源義朝に従う。平治の乱では義朝が敗れ、三浦一族は戦線離脱に成功し、京都から落ち延び帰国する。その後、自領で雌伏していたが、大番役の行き帰りに源頼朝の配所を訪ねるなど、源氏との繋がりを保った。義明は父にならい三浦介と号し、三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人を務める。治承4年(1180年)、頼朝の挙兵に応じて、三浦一族は挙兵する。しかし石橋山の戦いで頼朝敗戦の報せを聞き、義明ら一族は引き返し、籠城戦、義明は一族を安房国に逃したあと、衣笠城合戦で戦死(享年89)。 義明の長男・義宗は杉本氏を称するが39歳で没す。その息子・義盛は和田氏を称した。 長男の義宗没後、家督は次男の義澄が継いだ。 三男の義久は大多和氏を称した。 四男の義春は多々良氏を称し、その息子・家村は佐久間氏を称した。 五男の義季は長井氏を称した。 六男の義行は杜氏を称した。 十男の義連は佐原氏を称したが、宝治合戦で本家が滅んだ後は、この家系が嫡流となった。 また、猪苗代氏、北田氏、藤倉氏、蘆名氏、新宮氏、加納氏等、奥州で栄えた子孫もいる。
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