三浦義和・義質
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三浦義如の子・三浦義和は、安永7年(1778年)、義如の死去に伴って家督を継ぎ、享和元年(1801年)頃から三浦和泉守を名乗り、同年から文化12年(1815年)まで御先手鉄炮頭、同年から文政3年(1820年)まで御弓持頭、同年から同7年(1824年)に死没するまで御鑓奉行を務めた。 『見聞集』の秋田県立図書館蔵本の書写時の跋文に、「見聞集十冊、今時御鑓奉行三浦和泉か家秘にて、甚他見を禁る由、御徒目付鈴木分左衛門かいかにして借出せしやらむ、同好の者なれは、潜に看よとて貸こせしまゝ、筆耕者にうつさせ畢 文政庚辰(文政3・1820)7月」とあり、三浦義和(和泉守)は文政3年から御鑓奉行となっているため、「見聞集十冊」は三浦義和の家に伝わっていたことが確からしい。秘書を借り出した「御徒目付鈴木分左衛門」は鈴木椿亭(文左衛門、鈴木文)とみられる。 義如の四男で、兄・義和の養嗣子となった三浦義質(よしただ)は、近藤吉左衛門孟卿の女と結婚した。近藤孟卿は歌人としても知られた幕臣で、『柳営補任』によると、享和元年(1801年)9月に500石を加増されており、『新編相模国風土記稿』に、享和2年(1802年)に「近藤吉左衛門」が三浦の東岡村の御料所を下賜され、文化8年(1811年)まで知行していたことがみえる。 東岡村は、三浦(三崎)十人衆の子孫という鈴木氏の田地「竹のかしら」や、「亀崎田」の地名があった場所で、「三浦郡社寺民戸古城旧跡集」によると、近藤吉左衛門の知行所は「馬宮山」(1954年頃の城山住宅地)にあったという。
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