三浦義和・義質とは? わかりやすく解説

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三浦義和・義質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 15:26 UTC 版)

三浦浄心」の記事における「三浦義和・義質」の解説

三浦義如の子三浦義和は、安永7年1778年)、義如の死去伴って家督継ぎ享和元年1801年)頃から三浦和泉守名乗り同年から文化12年1815年)まで御先手鉄炮頭、同年から文政3年1820年)まで御弓持頭、同年から同7年1824年)に死没するまで御鑓奉行務めた。 『見聞集』の秋田県立図書館蔵本書写時の跋文に、「見聞集十冊、今時鑓奉行三浦和泉か家秘にて、甚他見を禁る由、御徒目付鈴木左衛門いかにして出せしやらむ、同好の者なれは、潜に看よとて貸こせしまゝ、筆耕者にうつさせ畢 文政庚辰文政3・18207月」とあり、三浦義和和泉守)は文政3年から御鑓奉行となっているため、「見聞集十冊」は三浦義和の家に伝わっていたことが確からしい秘書借り出した御徒目付鈴木左衛門」は鈴木椿亭(文左衛門鈴木文とみられる。 義如の四男で、兄・義和養嗣子となった三浦義質(よしただ)は、近藤左衛門孟卿の女と結婚した近藤孟卿は歌人としても知られ幕臣で、『柳営補任』によると、享和元年1801年9月500石を加増されており、『新編相模国風土記稿』に、享和2年1802年)に「近藤左衛門」が三浦東岡御料所下賜され文化8年1811年)まで知行していたことがみえる。 東岡は、三浦三崎十人衆の子孫という鈴木氏田地「竹のかしら」や、「亀崎田」の地名があった場所で、「三浦郡社寺民戸古城旧跡集」によると、近藤左衛門知行所は「馬宮山」(1954年頃の城山住宅地にあったという。

※この「三浦義和・義質」の解説は、「三浦浄心」の解説の一部です。
「三浦義和・義質」を含む「三浦浄心」の記事については、「三浦浄心」の概要を参照ください。

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