三浦義周・安祥院・清水重好
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「三浦浄心」の記事における「三浦義周・安祥院・清水重好」の解説
延享2年(1745年)に浪人から取り立てられて幕臣となり、『寛政重修諸家譜(寛政譜)』などにその名がみえる三浦義周 は、浄心の子孫と伝えられていた。 義周の娘は、形原松平又十郎親春の養女として大奥に勤仕し、延享2年2月に徳川家重の子で清水徳川家初代となる万次郎(徳川重好)を生み、家重の側室となった(のち剃髪して安祥院と称した)。これに伴い義周は同年8月18日に幕臣に取り立てられた。なお、大田南畝『一話一言』によれば、安祥院は義周の実の娘ではなく、西尾忠尚の家来某の娘で、義周の養女である。 義周の葬地は築地本願寺の善宗寺であったが、その子孫は普門院を葬地としていた。また『幕府祚胤伝』によると安祥院の葬地も普門院である。 1934年の田中博『玉川沿革誌』にある世田谷区上野毛の善宗寺(1928年に築地から移転)の伝には、「当寺には幕府直参三浦五郎左ヱ門の娘にて徳川十一代将軍の簾中となり、後上野凌雲院に葬られたる御方の位牌を将軍家より納められてあり、幕府執政中は其位碑守護として三葉葵の紋章の高張を許されるの名誉を有した」と伝えられていた。
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