三浦義継
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三浦 義継(みうら よしつぐ、1067年(治暦3年) - 1159年3月12日(保元4年2月21日)[1])は、平安時代後期の武将。父は三浦為継。子に三浦義明、津久井義行、蘆名為清、岡崎義実。通称は平六、平大夫[2]。
人物
相模国三浦郡を治め、在庁官人として活躍。1144年(天養元年)には、子の義明や在庁官人の中村宗平らと共に大庭御厨へ侵攻した(大庭御厨濫行事件)。また三浦荘司と称し、三浦郷を寄進して三浦荘を成立させた 。1104年(長治元年)には父為継のために清雲寺を創建した[3]。
脚注
- ^ 『寛政重修諸家譜 第3輯』(国民図書、1923年)p.793
- ^ 横須賀市 1988, p. 8.
- ^ 鎌倉春秋社 2007, p. 152.
参考文献
三浦義継(義継流)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:21 UTC 版)
為継の子・三浦義継(1067年-1159年)は相模国三浦郡を支配し、三浦荘司また三浦介を称した。以降、三浦党は相模の有力在庁官人として相模介となり、相模東半分と安房に勢力を振るう。 嫡男は三浦義明。 次男の義行は津久井氏と称した。 三男の為清は蘆名氏を称しているが、孫の石田為久は木曾義仲を討ち取っている。 四男の義実は岡崎氏を称し、その嫡子・佐奈田義忠は石橋山の戦いで討ち死にし、次男の義清は土屋氏の養子となっている。
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