三浦義韶
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『寛政譜』によると、義質と妻(近藤孟卿の女)の間には男子(峯之丞)があった。しかし、『柳営補任』にはそれらしい人名が見当たらない。 1918年の『万延元年第一遣米使節日記』中にある「新見家系譜抄録」によると、歌人としても知られる幕臣・新見正路の実弟は、三浦和泉守義和の養嗣子となって三浦義韶(三浦美作守、熊蔵、五郎左衛門、下野守)を名乗り、御先手(御鉄砲頭)に任じられた。『柳営補任』によると、義韶(もと熊蔵)は、文政3年(1820年)から翌年まで文恭院付小納戸、同年から文政9年(1826年)まで家慶付の西丸小納戸、同年から若君付小納戸となり、嘉永元年(1848年)から同6年(1853年)まで御膳番・奥ノ番、同年から同7年(1854年)まで奥ノ番、同年から文久元年(1861年)まで御先手鉄砲頭を務め、同年死去している。 嘉永3年(1850年)の『増補改正 御江戸番町絵図』には、番町の市ヶ谷御門から牛込御門の方へ堀沿いに行って少し入ったところ、表四番町沿いに「三浦下野守」とあり、安政5年(1858年)「御江戸番町絵図」の同じ場所には「三浦美作守」とある。
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