多々良氏 (たたらし)
多々良氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/25 08:42 UTC 版)
| 多々良氏 | |
|---|---|
| 氏姓 | 多々良公 多々良宿禰 多々良朝臣 |
| 氏祖 | 御間名国王・爾利久牟王[1] 百済聖明王子・琳聖太子[2] |
| 種別 | 諸蕃 |
| 本貫 | 山城国[3] |
| 後裔 | 大内氏(武家)[3] 山口氏(武家・華族) 鷲頭氏(武家) |
| 凡例 / Category:氏 | |
多々良氏(たたらうじ)は、日本の古代氏族の一つ。姓は公[3]、のち宿禰、朝臣[4]。後に中国地方の大名となった大内氏の本姓として知られる。
概要
815年(弘仁6年)嵯峨天皇の命により編纂された『新撰姓氏録』山城国諸蕃任那条によれば、多々良公氏は御間名(任那、加羅)の王・爾利久牟(にりくむ)王の末裔であり、欽明天皇の御世に渡来し、金の多々利・金の乎居等を献じたため、多々良公の姓を賜ったという[3]。
「タタラ」の由来には出身地である朝鮮の古名(佐伯有清)、金属精錬を意味する日本語の古語「タタラ」(福尾猛市郎)、日本における居住地を指す(吉田東伍)という三つの説がある[5]。佐伯有清は『日本書紀』に朝鮮半島の地名として蹈鞴津、多多羅、多多羅があると指摘し、三品彰英は蹈鞴津は慶尚南道釜山南の多大浦ではないかとしている[6]。渡辺滋は多大浦を支配していた伽耶諸国のひとつ金官加羅が532年に新羅によって滅亡した後に日本に逃れたという可能性や、伽耶諸国の多羅国との関連も想定するべきではないかとしている[6]。
多々良氏の一族は山城国・播磨国・周防国など、日本各地に集住した[6]。
和銅6年(713年)に編纂が開始された『播磨国風土記』には欽明天皇(志貴島宮御宇天皇)の時代に「田又利君」という人物が播磨国飾磨郡に移住したという記録がある。渡辺滋は「又」の字は古代において踊り字として用いられており、田や利が日本古代においては音を示す仮名として用いられない字であることなどから、田又利君が多々良氏と同一の実態を示す可能性は高いとしている[7]。
周防国多々良氏
周防国における多々良氏は遅くとも7世紀中頃に移り住んだと見られ、佐波郡達良郷(現在の防府市多々良)を根拠とする郷名氏族であった[8]。多々良氏の勢力は一郡程度には及ばないものの複数の郡にまたがるものであり、令制期には下級の郡司や、達良郷の郷長の地位をもっていたと見られる[9]。延喜8年(908年)の「玖珂郡玖珂郷戸籍公文」に「年陸拾陸歳 耆老」の「多々良公秋男」という人物が見える[3]。平安時代後期には一流が佐波郡を離れて吉敷郡に進出し、大規模な治水工事を行って大内村(現在の山口市大内)の開拓を行っている[10]。
11世紀後期以降、多々良氏は国衙において在庁官人としての活動を行うようになる[9]。仁平2年(1152年)8月1日付の周防国在庁下文には、この下文に署名した在庁官人9人のうち3人が多々良氏であった[3]。治承2年(1178年)10月5日には、多々良盛保・多々良盛房・多々良弘盛・多々良忠遠が流罪を免ぜられている[3]。養和2年(1182年)4月28日野寺僧弁慶申状案に連署した在庁官人10人のうち最上位に「権介多良(盛房)」とみえる[3]。
平安時代後期には在庁官人が次官である「介」の地位に就く例が見られるようになるが、多々良氏は二名の介・権介のうち一つを確保しており、周防国内における有力者としての地位を確立した[11]。鎌倉時代には権介を世襲した多々良氏は「山口介」を称するようになり[9]、後の「大内氏」の家名となった。
文治3年(1187年)2月には、周防国内の御家人らが東大寺造営のための材木の搬出を妨げたとして、在庁官人が連署してこれを朝廷に訴えたが、この解状に連署した13人の在庁官人のうちに多々良宿禰弘盛の名前が見える。一方で、建久3年(1191年)には、弘盛自身が東大寺造営柱の搬出を妨げたとの理由で、重源によって鎌倉に訴えられており、これに対して幕府は、大内介(弘盛)は「関東所勘の輩に非ず」として、これを却下し、朝廷へ奏聞することを奨めている。こうした相反する一連の行為は、大内氏が国衙機構を足場に在庁の諸豪族を配下に編成するためには、国司・目代との協力関係も必要としたからであるとされる[3]。いずれにしろ多々良氏と鎌倉幕府の関係は、この頃は強いものではなかった[12]。
建長2年(1250年)には、幕府が奉行した京都・閑院御所の造営に大内介・多々良弘貞がその分担を割り当てられており、また翌年与田保の地頭と公文との間で生じた争論の際、六波羅は大内介に沙汰してこの処理に当たらせていることから、この頃の大内介多々良氏は実質的に守護に近い存在になっていたと考えられる[3]。鎌倉時代中期には正式に御家人となり、建治元年(1275年)の六條八幡宮造替に参加している[12]。
大内氏は室町時代に中国地方・九州地方に勢力を張る大大名となったが、毛利元就によって滅亡させられた。大内氏の支流を称する尾張国の山口氏は徳川家康に仕えて牛久藩を領する大名となり、明治時代には華族に列せられた。
大内氏による多々良氏の始祖伝説
大内氏は中世後期以降、自らの先祖を百済王の王太子であると称している。
『高麗史』では1380年後頃に、朝鮮に対して大内義弘が先祖が百済の出身であると述べていたという記述もある[13]。応永6年(1399年)、義弘は「我、足百済ノ後ナリ、吾ノ世系ト吾ガ姓トヲ知ラズ、百済ノ土田ヲ請ウ」として、朝鮮に対して自身の家系を示すものと封地を要求した[14][2]。朝鮮側は大内氏の始祖は百済の始祖である温祚王であると回答している[14]。
後に先祖とされる「琳聖太子」の初出は応永11年(1404年)の興隆寺本堂落慶供養時の大内盛見願文である[2]。 享徳2年(1453年)には大内教弘が朝鮮国王端宗に対して「聖徳太子の時代、百済王が太子を日本に遣わし、大連(物部守屋)討伐の功績により大内の地を賜り、大内公と呼ばれた」という書を送り[14]、琳聖太子が大内氏の先祖であると主張した[2][13]。
文明18年(1486年)、大内政弘は興隆寺を勅願寺とするため、後土御門天皇に「大内多々良氏譜牒」を提出した[15]。「大内多々良氏譜牒」による由緒は以下の通りである。大内氏の祖は百済の斉明王璋の第3子・琳聖太子で、推古天皇17年(609年)鷲頭庄青柳浦の松樹に大星が留まり、七昼夜にわたって赤々と輝り続けた。在地の人々はこの奇瑞をいぶかしんでいたところ神託があって、異国の太子の来朝を鎮護するために降った北辰(北極星)であると告げたので、これを妙見尊星菩薩と尊び、社を建立して祀った。その後、推古天皇19年(611年)に周防国佐波郡多々良浜に漂着し、摂津国荒陵(現・大阪市天王寺区茶臼山)で聖徳太子に謁し、太子から周防国大内県を采邑として与えられ、多々良という姓を賜り、その地へ下向し本拠にしたと伝えている。ただしこの書における琳聖太子の父「斉明王璋」は、聖明王の名で知られ、後世に父とされた聖王(明禯)とは諱が異なり、璋の諱を持つ百済王は4代後の武王である[2]。
大内氏は朝鮮に対して新羅人と加羅人の後裔であると称していたこともあり(『朝鮮王朝実録』世宗二十三年十一月甲申条)、その先祖に対する説明は一貫性を欠いていることや、『新撰姓氏録』との食い違いなどから、この主張は事実とはみなされていない[8]。大内氏の所領は本州の西端にあり、朝鮮半島を望む位置を占め、朝鮮半島との貿易を積極的に行っていた。室町時代から大内氏が百済王の後裔を称し始めたのは朝鮮との貿易を有利に進めるためであったと見られている[2][16]。
大内氏後裔を称する山口氏の宗族制における分類は「外別 多々良朝臣」であり、「第74類百済国琳聖太子後正恒裔」とされる[17]。
脚注
出典
- ^ 『新撰姓氏録』諸蕃
- ^ a b c d e f 下松市史編纂委員会 1989, p. 112-113.
- ^ a b c d e f g h i j 下松市史編纂委員会 1989, p. 251-253.
- ^ 平頼直樹 2014, p. 45.
- ^ 渡辺滋 2023, p. 63-64.
- ^ a b c 渡辺滋 2023, p. 64.
- ^ 渡辺滋 2023, p. 64-65.
- ^ a b 渡辺滋 2023, p. 66.
- ^ a b c 渡辺滋 2023, p. 68.
- ^ 渡辺滋 2023, p. 77.
- ^ 渡辺滋 2023, p. 69.
- ^ a b 渡辺滋 2023, p. 76.
- ^ a b 金羅喜 2017, p. 13.
- ^ a b c 平頼直樹 2014, p. 55.
- ^ 金羅喜 2017, p. 25.
- ^ 御薗生翁甫『大内氏史研究』(マツノ書店、1959年)[要ページ番号]
- ^ 『華族類別録』1878年。
参考文献
- 下松市史編纂委員会『下松市史 通史編』下松市、1989年。2025年10月18日閲覧。
- 渡辺滋「古代の多々良氏から中世の大内氏へ―国衙在庁の中央出仕とその後―」『山口県立大学学術情報:国際文化学部紀要』第16巻、2023年、ISSN 21894825。
- 平頼直樹「<論説>室町期における大内氏の妙見信仰と祖先伝説」『史林』第97巻第5号、京都大学史学研究会、2014年、 ISSN 0386-9369。
- 金羅喜「大内義弘の百済先祖伝承の意義」『国文学研究ノート』第56巻、神戸大学「研究ノート」の会、2017年、doi:10.24546/e0041512、 ISSN 03858189、 NAID 120006653234。
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