琳聖太子 (りんしょうたいし)
琳聖太子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 09:32 UTC 版)
琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)は、大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子[1][2]で武寧王の孫とされる。名は義照。威徳王の孫で餘璋の子とするものもある[3][4]。百済王の齋明の第三子とも[5]。
概要
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという[6]。
『李朝実録』によれば、大内氏は応永6年(1399年)に朝鮮へ使節を派遣し、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。その要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が同氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知られており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述がみえる。
家系
聖王(聖明王) ┃ 琳聖太子 ┃ 琳龍太子 ┃ 阿部太子 ┃ 世農太子 ┃ 世阿太子 ┃ 阿津太子 ┃ 大内正恒
現在
大内家の45代当主と自称する船橋市在住の男性が、2009年に韓国益山市にある百済王陵を訪れ、歓迎を受けた[7][8]。
琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀四丁目の乗福寺に残っている。
脚注
- ^ 松田甲『日鮮史話 第2編』朝鮮総督府、1926年、1頁 。
- ^ 『山口県史 上巻』山口県史編纂所、1934年、60頁 。
- ^ 大森金五郎『国史概説』日本歴史地理学会、1910年、481-484頁 。
- ^ 岡田僑『日本外史補 新訳』新潮社、1912年、40頁 。
- ^ 妹尾薇谷『日本史蹟文庫 群雄の争乱』岡田文祥堂、1913年 。
- ^ 鈴木眞哉『戦国武将のゴシップ記事』PHP研究所〈PHP新書〉、2009年5月16日、11-12頁。ISBN 4569709559。
- ^ “百済王家末裔が船橋に! 習志野で企画展、資料など200点展示 千葉”. 産経新聞. (2015年11月18日). オリジナルの2022年1月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “百済と日本結ぶ韓日友好の願い…琳聖太使45世孫 大内公夫さん”. 在日本大韓民国民団. 民団新聞 (2014年3月19日). 2021年1月5日閲覧。
関連項目
外部リンク
- “〈2〉朝鮮貿易意識した系譜”. 読売新聞. (2004年10月2日). オリジナルの2009年2月12日時点におけるアーカイブ。
固有名詞の分類
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