傀儡の当主とは? わかりやすく解説

傀儡の当主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 04:26 UTC 版)

大内義長」の記事における「傀儡の当主」の解説

その後、義隆の重臣陶隆房が義隆に対して謀反企てると、隆房は天文20年1551年5月に晴英を大内氏の新当主迎えることを望んだ。晴英の兄・大友義鎮は、当初から隆房が晴英を傀儡として擁立するだけで、自分政権が揺ぎないものとなれば廃位されるに違いない疑い反対したが、晴英自身大内氏当主となることを望み「この要請断り中傷を受けることの方が悔しいので、命は惜しくない」と主張したため、義鎮もこれを認めた同年9月謀反大寧寺の変)で義隆・義尊父子が殺され大内領内における混乱ひとまず収束した後の天文21年1552年3月3日山口入って大内家の新当主として擁立された。この時、大内氏祖先とされる百済琳聖太子上陸した伝えられる周防国多々良浜上陸して山口向かっており、大内氏故事踏襲して当主としての正統性示そうとしたと考えられている。また、隆房も晴英を君主として敬うことを内外表明するため、晴英から偏諱拝領し、晴賢と改名した。この時の政治に関して文書形式奉書直書も義隆時代と同様であり、晴英の命令を晴賢が奉じるになっていた。ただし、偏諱を受ける場合はあくまで当主の諱の下字を受けるものであるが、晴賢の場合は上字を受けており、晴英と晴賢の主従関係通常とは全く異なる事を意味している。 天文22年1553年)春、室町幕府13代将軍・足利義(のちの義輝)から偏諱受けて義長(よしなが)と改名し同年1月27日従五位下左京大夫叙任された。これは歴代当主ならって大内家当主である事を強調するためであった。 しかし当主になったとはいえ実質的には晴賢の傀儡であった天文23年1554年3月には、三本松城主吉見氏討伐のため総大将として出陣するが、全軍指揮事実上晴賢が執っている(三本松城の戦い)。 また、弘治2年1556年)には、勘合貿易再開求めて明に使者派遣したが、明からは正統大内氏当主としての承認拒まれている。

※この「傀儡の当主」の解説は、「大内義長」の解説の一部です。
「傀儡の当主」を含む「大内義長」の記事については、「大内義長」の概要を参照ください。

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